第84章―1 大日本帝国憲法改正とそれに伴う世界への影響
第84章の始まりです。
さて、話が行きつ戻りつするが。
(この世界の)大日本帝国憲法の改正問題は、それこそ帝国憲法制定時から伏流水のように続いていた問題といえ、織田信長内閣成立時から、衆議院、貴族院を問わず、水面下でささやかれてきた問題だった。
その最大の焦点が、衆議院を貴族院に優越させるという問題だった。
大日本帝国憲法制定時、近衛前久を中心とする面々は、次のように主張した。
「臣民の意見を聞いて、法律を作り、予算を立てるというのは素晴らしいことだが、これまで政治を行ったことが無い臣民が、まともな法律を作り、予算を立てられるのか、どうにも不安がある。だから、衆議院に加えて貴族院を造り、そこは対等の立場にすることで、そういった不安を避けるべきだ」
これに対して、織田信長らは懸命に、近衛前久らの主張に抗弁したが、それならば、大日本帝国憲法を制定しない、という態度まで、近衛前久らが示したことから、大日本帝国憲法制定の為に妥協することにしたのだ。
だが、このことは織田信長らにしてみれば、極めて不満が残ることであり、何れは衆議院を貴族院に優越させようと、多くの衆議院議員が考え続けることになった。
その中には、保守党系の衆議院議員も、それなりどころではなくいる程だった。
だが、ことがことである。
貴族院議員の殆どは長年に亘って、この問題については絶対に反対、衆議院優越を目指す改憲は言語道断、絶対に赦されることではない、衆議院と貴族院は対等であるべきである、と主張した。
そして、貴族院議員の主張が正しい、と言っても良い事態があったのが、事をややこしくした。
それは何かというと、織田信長内閣の史上最大の失敗だと(この世界の1621年時点でも)未だに謳われている外国人年季奉公人法案の取り扱いだった。
それこそ織田信長は、いきなり平民から首相に就任できたという高揚感から、更には、この時の日本本国の国民から圧倒的な支持があったことから、野党の衆議院議員の殆どまでもが、ろくな国会審議をせずに、即日で外国人年季奉公人法案を衆議院は可決するという暴挙をやらかしたのだ。
これに対し、織田(三条)美子や近衛前久、二条晴良といった貴族院議員の殆どは、この法案は日本の植民地、特に北米植民地の住民に対する衝撃が大きい、独立戦争が起きる危険がある、等と考えて、熟議を行うことで、日本本国陸海軍の再配置を行える時間稼ぎを行った。
その結果、外国人年季奉公人法案の成立した直後、北米植民地が独立戦争を起こすという事態が起きたのだが、日本本国陸海軍の再配置が済んでいたために、北米独立戦争は実質的に日本が勝利を収めることで終えることが出来たのだ。
この一件によって、日本本国の国民の多くが、貴族院の必要性を認め、一時の高揚感等から法律制定等が行われるべきではない、と認識することになって、それはそれで良かったのだが。
その反動から、下手に衆議院優越を認める大日本帝国憲法改正は出来ないとの世論が、それなり以上の力を持って、漂い続けることになるのも、ある意味では当然だった。
そして、衆議院議員選挙の完全普通選挙導入さえも、改憲反対の世論、声を高めることになった。
それこそ庶民、貧困層が過激な主張に染まりやすいのは、公知の事実に近いモノがある。
だから、完全普通選挙が導入された以上、尚更に衆議院の優越は認めるべきではない、との主張さえも日本国内で横行する事態が起きたのだ。
だが、日本の完全普通選挙導入から20年以上が経つ。
そして、日本の民本主義は成熟したと言える。
だから、今こそ衆議院の優越を認めるべき、という改憲論が高まりつつある現実が、この世界ではあったのだ。
人間、相手の失敗というのは、それこそ相手を叩く好適な理由に成る等から、そう易々とは捨て去らず、何かと持ち出すモノなのです。
そうしたことから、50年近く前の北米独立戦争勃発前のことが持ち出されて、「衆議院の優越」に対しては、それなりに否定的な輿論が(この世界の)日本では漂う状況になっていました。
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