プロローグ(第15部)―1
最終部になる第15部の始まりになります。
尚、プロローグは5話で、1620年末時点になり、それぞれの話者の視点からの話です。
プロローグの第1話は鷹司(上里)美子視点になります。
1620年12月下旬、鷹司(上里)美子は夫の信尚や長男の教平、及び鷹司家の鷹匠らと共に鷹狩りに赴いていて、その帰途についていた。
「鶴が5羽も獲れて良かったです。我が家に1羽を残しても、(今上)陛下や近衛家、九条家、一条家に鶴を1羽ずつ年末の贈答品として贈ることが出来ますね。他に兎等も鷹狩りで獲れましたね。それらも適宜、各家等への贈答品にしましょう」
「そうだな」
帰途の車の中での美子の言葉に、信尚は微笑みながら答えた。
その笑顔を見ながら、美子の胸は痛んだが、何とか内心に押し込めることができた。
美子には考えざるを得ないことがあったのだ。
いよいよ来年のことになってしまった。
自分が愛する夫が薨去するのは。
自業自得とはいえ、「皇軍資料」を焼却してしまった以上、今更、夫が薨去した時等の詳細を確認する手段は自分には無く、運を天に任せて、夫が長命するのを自分は願うしかない。
だが、何とも皮肉なことに、夫が長命するのが、本当に良いことなのか。
自らの祖国になった大日本連邦帝国のことだけを考えるならば、夫は薨去した方が良いのではないか。
そんな考えさえも、自分に浮かぶのが何とも言えないことだ。
昨年7月に、自分からすれば叔父になる二条昭実内大臣が薨去した。
予め「皇軍資料」によって、そのことを予測していた自分は、今上(後水尾天皇)陛下と相談の上、九条幸家を内大臣にした。
九条幸家は1586年生まれであり、それこそ30歳代前半で内大臣になるのには若すぎるという批判があったが、摂家の当主やその近辺には九条幸家しか内大臣候補がいないと言っても過言では無かった。
何しろ、1620年現在の摂家の当主だが。
近衛家は近衛信尋で1599年生まれになる。
九条家は九条兼孝が1553年生まれで健在だが、高齢から隠居して、幸家が当主になっている。
一条家は一条昭良で1605年生まれになる。
鷹司家は鷹司信房が1565年生まれで健在だが、高齢から隠居して、1590年生まれの信尚が当主になっている。
(更に少し裏事情を言えば、信房の政治的技量を懸念した今上(後水尾天皇)陛下の意向から、信房は隠居に追い込まれている)
二条家は二条康道で1607年生まれになる。
そんなこんなを考えれば、九条幸家以外に内大臣に就任できる摂家の当主はいない現状がある。
鷹司信尚にしても、やっと30歳になったばかりだからだ。
だから、本来ならば、内大臣候補者として、信尚の長命を美子は夫と言うことも相まって願うべきなのだが、信尚は家庭的な好人物ではあるが、様々な政治的才覚が必要不可欠な内大臣は務まらない、と美子は政治家としては冷たい判断をせざるを得ず、今上(後水尾天皇)陛下も同意する現実があった。
最も裏返せば、信尚がこうなったのは、美子が最大の原因でもあった。
美子の抜群の政治的才覚が、結果的に信尚に政治に関することは妻に任せれば大丈夫だ、という感覚を生み育ててしまい、信尚の政治的才覚を鈍らせてしまったのだ。
それこそ過保護な母親が、子どもの行動の先回りをし過ぎて、子どもから自主的な考え、行動を結果的に奪うのと似た事態を引き起こしたといえ、美子は今更ながら悔やむしか無かった。
(後、美子が尚侍を務めているのも、問題になった。
信尚が内大臣に就任しては、夫婦で宮中を牛耳っているように、周囲から見られかねなかった)
ともかく、そういった現実から、今上(後水尾天皇)陛下としては、自らの弟になる近衛信尋の成長を待ち望んでいて、何れは幸家と信尋を交互に内大臣に据えたい、と考えている現状があったのだ。
そして、美子も今上(後水尾天皇)陛下の意向に積極的に賛成していた。
何で二条家に鶴を贈らないの?というツッコミが起こりそうですが。
この時点では、二条康道は実の両親になる九条幸家夫妻と同居しているためです。
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