第81章―2
広橋正之は、広橋愛の養子としてすくすくと育った。
尚、(既述だが)上里愛が広橋愛になったのは、正之が上里家の後継者になるという疑念を生まないために行われたことだった。
この前後に、上里清の息子の克博と隆が、対建州女直戦争で戦死し、更に男児を遺さなかったことから、上里清の後に上里家を誰が継ぐのか、という大問題が起きていたからだ。
そして、何年にも亘って、散々に揉めた末に鷹司(上里)美子の次男の松一が、上里清の養子になって上里家を継ぐことで決着が付くことになった。
その大問題を避けるために、廃絶家再興という奇策を駆使して、上里愛は広橋愛になり、正之を養子に迎えるという事態が起きたのだ。
そして、育つ内に少しずつ正之は自らの立場を分からざるを得なかった。
「ねえ、僕のお父さんは何処にいるの」
「海の彼方よ。そして、お父さんは貴方に逢いたくないようなの」
ある時、そんな会話を愛と正之は交わした。
更に正之は、自分が養母の愛に余りにも似ていないことから、愛が養母と察せざるを得なかった。
更には。
「この子が私の弟なの」
「そうよ」
「可愛いわね。私のことは、完子お姉さんと呼んでね」
「私は美子叔母さんでいいからね」
「何で同級生の貴方が小母さん呼ばわりされるの。美子お姉さんでいいでしょ」
「家族と言えど、ケジメを付けないといけないわ。私は美子叔母さんなの」
そんな会話を、(後の)鷹司(上里)美子と九条(徳川)完子が、正之の前で交わすことになった。
そんなこんなが積み重なって、学習院の初等部(小学校)に入学する頃には、正之は自分が徳川秀忠と愛妾の間の子で、広橋愛の養子になったのを知ることになった。
(尚、余談に近いが、正之の実母の親族は、正之の実母が秀忠の子を妊娠した際に、小督やエウドキヤ女帝からの後難を怖れて、正之の実母を義絶していた。
その為に、正之の実母は正之を産む際、親族を頼れなかったのだ。
更にこれを広橋愛が知ったことから、愛は正之の実母の親族を正之の親族とは認めない事態が起きた。
そして、後の話になるが、正之も養母に同調し、生涯、実母の親族を自らの親族と認めなかった)
そして、正之が学習院に入った後のことだが。
(尚、学習院入学前の保育園や幼稚園時代は、正之の出生問題等、同級生等の間では誰も気にしていないといって良かった。
というか、保育園児や幼稚園児で、そんな出生問題が話題になるだろうか)
正之の同級生というか、上級生や下級生の多くまで、触らぬ神に祟りなしという態度を正之に執った。
何しろ相前後して日本の宮中では「猪熊事件」が勃発し、更には当時は皇太子殿下、後の今上(後水尾天皇)陛下の結婚問題が起きたからだ。
この問題解決で名を馳せたのが、(言うまでもないことだが)正之の義理の叔母にして、義姉にもなる鷹司(上里)美子になる。
それに加えて、正之の異母姉が九条完子であり、徳川千江であることまで、周囲に知れ渡ったのだ。
こういった事情持ちとあっては、正之が周囲から触らぬ神に祟りなしという態度を執られるのも当然としか言いようが無かった。
何しろ、表向きは無関係だが、血縁で言えば皇后陛下の異母弟にまで、正之はなったのだ。
他にも五摂家を占める九条家や鷹司家の縁者にも、正之はなる。
だが、その一方、徳川家からは正之が疎んじられているとあっては。
目端の利く周囲とその家族程、正之と距離を置き、触らぬ神に祟りなし、という態度を執るのは当然としか言いようが無かった。
そういったことから、正之は読書を主な趣味にすることになった。
正之は人づきあいが苦手では無かったが、周囲の態度を気遣う程、一人の趣味に耽らざるを得なかったのだ。
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