第80章―21
そんなやり取りが何度も繰り返され、最終的にはほぼ1616年一杯が掛かることになったが、明帝国と日本、後金、モンゴルの三国連合は講和条約を締結した。
明帝国は永遠に覇を唱えないことを宣明し、中華思想を国としては放棄することになった。
又、明帝国の内政等の改革に、日本等は積極的に協力することになり、取りあえずは日本等は援助物資等を提供することになった。
(尚、それに掛かる費用だが、明帝国政府への借款という形が執られることになった。
取り敢えずは日本等が負担するが、後で掛った額について明帝国が清算することにしたのだ。
それこそ、この世界では最大の超大国といえる日本といえど、明帝国の住民を救援できるだけの財政能力は無いのだ。
だからこそ、主に日本国内、有権者を宥める為に、借款という形で当面を誤魔化さざるを得なかった)
更に欧州等では既に常識であったが、東アジアでも全ての国は平等、対等ということになった。
とはいえ、これまでの歴史的経緯から、東アジアにおいては、(既に描いているが)日本の今上陛下が長兄、後金、モンゴル、明、琉球が末弟と言う形の各国の皇帝、国王の序列が行われることになった。
(尚、朝鮮国王は、既に後金国王の子になっていたことから、ハブられた)
そして、明は積極的に天津や上海を始めとする10余りの複数の港を開港し、外国との自由貿易に応じることになった。
(余談に近いが、そういった開港地の中には沙市や重慶といった長江沿いの都市まであった。
何故かと言えば、それこそ明帝国内の惨状は酷い有様で、大量の船舶を使った物資の輸送が、明帝国内の復興には必要と考えられたからだった。
更に、明帝国内の裁判は信用できない、ということから、開港地の一角は租界となり、明帝国内の司法権は及ばない、つまり治外法権が認められる事態が起きた。
その一方で、それなりに明帝国では関税が認められることになった。
何故かと言えば、外国への借款返済の財源には、主に関税が充てられたからだ。
本当に開港問題は、明帝国の内外に皮肉な事態を引き起こした。
ここに長年に亘る倭寇問題は完全に終焉したといってもよい事態が起きた。
何しろ、海禁政策が廃止されて、自由貿易を明帝国が認めたのだ。
この後、倭寇の面々の多くが、完全に合法な外国貿易商人に転職する事態が起きることになった。
(とはいえ、全員が合法な外国貿易商人に転職した訳ではない。
どうのこうの言っても、それこそ麻薬交易等で儲けていた倭寇もいたからだ。
そうした面々は犯罪結社を造って、麻薬交易等を続け、日明等の政府から取締りを受ける事態が起きることになった)
そして、明帝国内で生き延びていた皇族は、全て北京に集められて住むことになった。
これは、皇族を担いで反乱が起きるのを、日本等が警戒したからで、泰昌帝自身もそれを危惧したことから、明と日本等の講和交渉が始まった直後には、そのような勅令が布告されることになった。
それに明帝国の多くの皇族が応じたが、一部の皇族は北京で処刑されると警戒して北京に向かうことを拒む事態が起きたが。
そういった皇族は、勅命に反したとして、最終的には処刑される運命が引き起こされた。
そうした様々な講和条件が詰められていく一方で、既述だが、南京や北京を皮切りに、明帝国内では住民に対する様々な救援活動が行われることになった。
そうしないと、明帝国内の混乱は収まらず、結果的に大量の流民が隣国に雪崩れ込む事態が起きかねない、と日本等は考えたし、明帝国もそれを認めざるを得なかったのだ。
だが、これも容易に行えることではない。
まずはやれる限りのことを、ということになるのは当然だった。
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