第80章―16
万暦帝は怒りを込めて言った。
「何故に朕の命令に速やかに従わぬ。従わない者も同様に三族皆殺しにするぞ」
その言葉を聞き終えた側近の一人が言った。
「ここまでの愚帝とは」
それを聞いた万暦帝は,更に激怒した。
「この者も速やかに三族皆殺しにせよ」
だが、誰も動こうとはしない。
この場にいる全員が、万暦帝に愛想を尽かせていたのだ。
少しでも理性があれば、長期に亘って北京が攻囲されている以上、攻囲している後金軍との和平交渉を万暦帝は考える筈なのだ。
だが、そんなことを全く考えずに、正月の宴会等の準備をするように、自分達に命じて、それに従わねば三族皆殺しにせよ、というとは。
ここまでの愚帝とは、万暦帝をこれまでは誰も考えていなかったが、それが明らかになったことから、急速に側近の間では、万暦帝への愛想が尽きる事態が起きたのだ。
別の側近が、声を張り上げた。
「正月の準備等、とてもできませぬ。そんな準備をする位ならば、後金軍に投降します」
「何を言うのだ。朕の命令に従えぬのか。自分や家族の命は惜しくないのか」
「まだ、気づかれぬのですか。皇帝や皇族の首を持参すれば、多大な恩賞が日本等から貰えるとの話が聞こえており、既に一部の皇族は、実際に殺されていて、その首を後金軍に持参した者は多大な恩賞に預かっているのですよ」
「大逆無道の輩めが。皇族を殺すとは謀叛人だ。三族皆殺しになって当然だ。皇帝あっての国なのが、分からないのか。その逆は無く、皇帝が弑逆されては国が保てぬ」
「そのために民が死んでも当然だと」
「皇帝に忠誠を尽くすのが孔孟、儒教、朱子学の根本だ。儒教の教えに背くのか」
その側近と、万暦帝は論争を交わした。
「朱子が重んじる「孟子」は、民を重んじるように説いています。そして、「孟子」は革命を肯定しており、その為に革命を忌避する日本には「孟子」が伝わっていないとか。その一方で、日本は万世一系の王が統治を続けているとも。更に日本が世界を制したといえる程に発展したのは、天皇と自称する王の力によるものが大きいとか。今、それが真実なのを察することが出来ました」
その側近は、そこまで言い、その言葉に周囲の者の多くが肯いた。
「いきなり何を言い出すのだ」
万暦帝にしてみれば、全く理解できない事態だった。
朕、自分あっての国家なのだ。
そして、中華国家の自国に、全ての国がひれ伏して朝貢するのは、それこそ太陽が常に東から上って、西に沈むのと同様に当然のことなのだ。
それに叛く国は、この世に存在しないし、一時はそんなことを言っても、何れは自分が統治する明に、ひれ伏して朝貢するようになるのだ。
だから、東夷の日本や北狄の後金やモンゴルにしても、すぐに改心して自分が治める明に朝貢するようになる筈なのだ。
実際に、そうなると、この場にいる面々を始めとする皆が、そう言っていたではないか。
そして、そんなことは無い、という者を、側近の皆でよってたかって、君恩に叛く者と誹謗して、三族皆殺しにすべきだ、と喚いて、自分はそれが当然だ、とずっと考えて行動して来ただけだ。
それなのに、今になって、側近の者達は、朕が間違っているというのか。
そう万暦帝が考えている間にも、側近の者の話は進んでいく。
「もう、この国は終わりだ。自分は後金に投降することを本気で考える」
「自分も同様だ」
「俺もそうする」
「ここまでの臣下ばかりだったとは。臣を罰する詔を発する。誰か、詔を起案せよ」
側近の話を聞いた万暦帝が宣言するが、誰も万暦帝の言葉を聞こうとしない。
「ここまで至って、臣を罰する詔を発するとは。もう終わりだ」
側近の殆どがそう言って、万暦帝の傍を離れる事態が起きた。
実際には、既に奈良時代には「孟子」が日本に伝来しているようですが、明代の中国では「孟子」は易姓革命を認めるために、未だに日本には伝来していないという伝説が流布していたとか。
今回は小ネタとして拾わせて貰いました。
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