第80章―15
ヌルハチの本音としては、速やかに北京を攻撃して、陥落させたかった。
だが、それは日本が指摘するように、後金軍に多大な損害が出る可能性があるのも事実だった。
何しろ北京の街並みを駆使した市街戦を戦うとなると、その土地を熟知している明帝国軍の方が極めて有利で、武器が優越しているとはいえど後金軍が苦戦を強いられるリスクが大きい。
だから、ひたすら北京を攻囲して、将兵や市民の北京からの脱出を阻止して、少しでも早く北京の食料が尽きる方策を駆使し、それで少しでも流血の事態を回避して、北京を陥落させるべきだ、という日本の理屈を、純粋に軍事的合理性を追求するならば正しいのが、ヌルハチは理屈の上では分かるのだ。
(尚、ホンタイジを始めとする後金国の皇族の殆ども、日本の理屈、判断を是としているという事情も、ヌルハチの理屈を後押ししている。
幾らヌルハチと言えど、自らの子どもを始めとする皇族の殆どを敵に回す行動は執れなかったのだ)
だが、そうは言っても、速やかにヌルハチとしては、北京を陥落させたいという想いがしていた。
それこそ、様々な恨みが積み重なっている明帝国の首都である北京が、自らの手の届くところにあるといえるのであり、それこそ実際には違うのだろうが、熟柿が落ちる寸前に見えているのだ。
そんな想いをしながら、後金軍によって北京が攻囲されて数か月が経ち、1616年の正月が、明帝国にしてみれば近づいていた。
尚、明帝国は未だに太陰太陽暦、いわゆる旧暦を用いていたので、日本にしてみれば1616年2月半ば頃のことになる。
「正月の準備をするように」
万暦帝は側近の者達に、そのように正月が近づいたことから命じた。
だが、その側近の大半の顔色が悪くなっている。
何しろ北京が攻囲されてから数か月、兵糧は乏しくなり、闇の食料品の値段は暴騰する一方なのだ。
側近の多くが栄養失調になるのが当然で、顔色が悪くなっていたのだ。
「何を暗い、悪い顔色をしているのだ。正月を大いに楽しめ、そして、明るい顔色をしろ」
万暦帝は少し不機嫌な声を挙げた。
万暦帝にしてみれば、大事な正月の準備なのだ。
側近が悪い顔色をしていては、正月を愉しむのに水を差されてしまう。
その声を聞いた側近の一人が腹を括って、声を挙げた。
ちなみにその側近は空腹に喘ぐ余り、子どもを取り換えて食う有様になっている。
(更に言えば、このことは朱子学的には礼賛される行為だった。
何しろ子は親の為に犠牲になって当然なのだから。
だが、その一方で、その側近にしてみれば、最愛の子を取り換えて食わねばならないことは、自らの心が痛んでならないことだったのだ)
「陛下、最早、正月の準備をするどころではありませぬ。後金と交渉を為さいませ」
「交渉だと。後金がどのような朝貢を我が国にするのか、話し合えというのか」
「違います。最早、後金に対して朝貢を求める等、現実的な話ではありませぬ」
「我が国は特別なのだ。後金が我が国を攻めて来ただけでも烏滸がましい。あと少しで尻尾を巻いて、我が国の国威の前に後金軍は退くだろう。それが分からぬのか。正月の準備をせよ」
万暦帝は、その側近とやり取りをした。
その側近は改めて考えた。
自分達が命惜しさにやってきたことが、このような愚帝を生み出してしまった。
本当に我が明朝は滅びの時を迎えようとしている。
「正月の準備はできませぬ。最早、正月の品々を調えることは不可能です」
「何だと。この者を殺せ、更に三族を皆殺しにせよ。勅命に叛いた以上は当然だ。正月の準備を速やかに調えるのだ」
その側近の反論に怒った万暦帝は、そのように他の側近に命じた。
だが、その言葉に応じる者はいない。
中国に対する偏見塗れ、とフクロにされそうですが。
「史記」で晋陽の戦いに際して、子を取り換えて食うことを賛美していますし、更に「三国志演義」でも妻を殺して、その肉を提供するのを賛美している現実が。
更に二十四孝の内容を見れば、自らの子どもを殺して自らの親を養うことこそが、人の第一の徳目である孝なのだ、と主張されている現実が。
とはいえ、実際に我が子を殺す羽目になれば、親が心を痛めるのは当然ではないでしょうか?
そういったことからすれば、君主の為ならば妻子は殺されて当然というのが、この明時代には当然という意識があった、と私なりにあったと考えた上で、そこまでの事態になれば、家臣の心も離れるとの描写からですので、どうか平にご寛恕を。
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