第80章―11
日本軍の南京占領は、様々な影響を明帝国内外に引き起こすことになった。
まずは明帝国内の対応を描くならば。
「何、南京が日本軍によって占領されただと」
「はい、そのように早馬が伝えております」
「速やかに南京を奪還せねば」
そんな朝議が、北京で引き起こされることになった。
何しろ南京は、明帝国にしてみれば副都である。
首都の北京とは流石に比較にならないとはいえ、南京六部といわれる小政府が設置されている重要な都市でもあったのだ。
又、明の初代皇帝の太祖の明孝陵がある街でもあり、それこそ仁義八徳の一つである忠孝の観点からも、決して軽視できる街では無かった。
そのために明帝国軍の多くが、南京奪還に動くことになったのだが、明帝国軍の現実から、それが遅々としたモノになるのは止むを得ないことだった。
「速やかに南京奪還のために部隊を移動させるように」
「そうは言っても、1日20キロの移動が精一杯です」
(話の描写の都合上、メートル法で描写しています。
この辺り、明帝国が実際に採用していた距離で描写しては、却って分かりにくくなると考えました)
「そんなノロノロした行動をしてどうする。1日40キロは移動せよ」
「そんな。とても無理です」
「無理ということは、皇帝の命に背く、謀叛を起こすという事だな。我が明帝国軍の用いる辞書には、不可能という言葉があってはならない」
そんな感じのやり取りが多発することになり、南京奪還の明帝国軍の集結には、却って困難が起きることになった。
実際問題として、自動車化、機械化が進んでいる日本軍や日系諸国軍ならばともかく、輓馬が最大の輸送手段と言える明帝国軍にしてみれば、物資輸送問題から1日20キロの移動が精一杯だったのだ。
それなのに、机上の空論といえる主張から、1日40キロの移動を強いられては。
現場の明帝国軍内に不満が渦巻くのは当然の事態で、実際にそのような移動は不可能に近い事態が引き起こされることになった。
更に物資を運ぶ現場には、不可能といってよい話が持ち込まれることになった。
「北京と杭州を結ぶ運河が、日本軍によって切断される事態が起きました。江南から物資を運ぶのは、従前よりも様々な意味で困難になります」
「運河が切断されても、陸路で運べば済む。何故に困難と言うのか」
「人や馬で陸路を運ぶよりも、運河を使って船で運ぶ方が容易なのです」
「容易なだけであって、陸路で運ぶのが不可能という訳ではない。陸路で同様に物資を運べばよい。速やかに迂回路を開削して、江南の物資を北京等に従前同様に運び込むように。此れは勅命であり、従わねば謀叛と見なす」
そんな命令が上層部から下ることになり、物資を運ぶ現場では猛反発の声が挙がることになった。
取り敢えず駅站制度を設けて、物資を運ぶことになったが、駅站を設けるにしても、様々な物資が人手がお金が、現場において必要なのは当然のことだった。
そして、それを調達するとなると、更なる苛斂誅求が当然のこととなる。
又、明軍の移動にしても急行軍が強いられる以上、食料等の物資は移動中の現地で求めるのが当然ということになる。
物資を運んでいては、急行軍が行えないからだ。
そして、これ又、後で支払うと言いつつ、実際には掠奪に近いことが多発することになる。
そんなことから、南京を奪還しよう、又、従前どおりに物資を運ぼうという明帝国政府、軍の行動は、急激に明帝国内に不穏な動きを高めることになり、これ以上の苛斂誅求には耐えられないとして、逃散や一揆、暴動が明帝国全土では徐々に発生するようになった。
そして、そういった動きを日本等は航空偵察や噂の収集等から、必然的につかむことになった。
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