第80章―6
そんなことを上里丈二海軍大将が考えていること等は全く関係なく、日本軍は上海へ、更には南京へと進軍を図る事態が引き起こされた。
実際問題として、圧倒的な日本軍の兵器の優位は、明帝国軍を鎧袖一触にしていると言っても過言では無い状況を引き起こしていた。
日本軍の先鋒を務める立花宗茂少将は、明帝国軍の現状に落涙する想いさえしていた。
「こんな武器で、日本軍と戦おうとするとは。中華思想もここまでくると、敵軍ながら心からの憐れみを自分は覚えざるを得ない」
そう立花少将は呟いた。
度々述べているが、明軍とて小銃や大砲を保有していない訳ではない。
だが、問題はその質が圧倒的に日本軍に劣っていることだった。
それこそ自動小銃を最前線部隊の兵には配備し、後方部隊でも護衛に当たる兵には、ボルトアクション式小銃や短機関銃が、日本軍では配備されているのだ。
(尚、後方部隊の護衛に当たる日本軍の兵の間では、実は不満が渦巻いていた。
何しろ、正面から日本軍と戦っては全く明帝国軍は勝算が立たないのだ。
少しでも勝算が立つ後方部隊襲撃に、目端が利く明帝国軍程、努力するのが当然だった。
そのために後方部隊にも、自動小銃の配備等が切望されたが。
幾ら世界最大の大国の日本といえど、易々と後方部隊にまで自動小銃の配備は出来ず、後方部隊では不満が渦巻く事態が引き起こされたのだ)
それはともかく、最精鋭の部隊でも、歩兵ならばマスケット銃を装備していて、砲兵ならば炸裂しない鉄の弾を直接照準で撃つしかない大砲を装備する明軍では。
自動小銃を装備する歩兵や、間接照準を駆使して、炸裂弾を撃てる砲兵を有する日本軍と正面決戦を挑んでは、同兵力どころか2倍の兵力が明帝国軍にあっても、1時間も抗戦することはできずに、敗走する事態が明軍に起きるのは当然に近いことだった。
だから、日本軍との正面決戦を、明帝国軍はひたすら避けることになった。
この時の日本陸軍の前線兵力は、3個師団で約5万人といったところであり、上海近郊に上陸した後、上海を占領して、ほぼ長江沿いに南京を目指すというのが基本の進軍方針だった。
一方の明帝国軍は、後金国の北京周辺への侵攻作戦対処のためや、や湖広方面に展開していた部隊が、四川省や雲南省にモンゴル軍が侵攻したために、その救援のために向かった状況に鑑み、その穴埋めを行ったこと等から、いわゆる根こそぎ動員を行っても、10万人も集めるのに苦労する惨状だった。
だが、その一方で、これまでの明帝国政府というか、皇帝及びその近くの佞臣に対する恐怖から、明帝国軍の多くが、日本軍と戦うことを選び、更に少しでも勝算を高めようと、正面決戦を回避したのだ。
更に彼らの多くが、民間人に偽装しての日本軍攻撃を徹底することになった。
彼らにしてみれば、民間人への攻撃を日本軍が躊躇う以上、少しでも勝算を高めるための当然の行動だったが、こうした明帝国軍の行動は、細川忠興中将らの一部の日本軍の将兵らにしてみれば、明帝国の民間人への攻撃を正当化する行動に他ならなかった。
「軍服を着ずに、日本軍に射撃を行って来る部隊がいたら、攻撃を仕掛けて来た部隊の周辺を含めて、砲爆撃を容赦なく大量に浴びせろ」
細川中将は、そこまで自らの指揮する師団の将兵に対して指示した。
立花少将や武田信勝少将は、細川中将の方策は却って明帝国の住民を反日行動に奔らせる、と反対したのだが。
細川中将の父は細川藤孝であり、日本本国でも名家の一つの出身と言える。
そうしたことから、細川中将の行動を、それこそ総司令官の後藤基次中将でさえ完全に止めることはできず、このことは後々で日明間の禍根を引き起こした。
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