第79章―1 対明帝国対策準備
第79章の始まりです。
予めお詫びしておきますが。
結果的に最初の数話は微妙にノリが悪いというか、話が円滑に描けず、本当にすみません。
少なからず、状況が変わる。
1615年の正月明け、伊達政宗は閣議を開いていた。
表向きは今年度の予算を始めとする様々な国会対策が主だったが、実際には別のことが主だった。
「毛利輝元外相、後金国やモンゴル帝国からの情報を整理して、この場で話してほしい。勿論、閣議の前に資料は閣僚に対して配布しているが、上手の手から水が漏るという言葉もある。資料に書けなかったことも多々あるのではないか」
予め打合せを済ませていたことだが、政宗がそう言葉を発すると、輝元はその言葉に肯いた後、他の閣僚に長々と説明の言葉を発した。
その言葉を聞く内に、多くの閣僚が苦虫を噛み潰したような顔に徐々になった。
以下は、その要約になる。
モンゴル帝国は、シベリアを介したローマ帝国の脅威を示唆することで、中央アジアの諸国というより、モンゴル系やトルコ系の民族からなる諸勢力の糾合に成功していた。
そして、モンゴル帝国を率いるリンダン=ハーンは、当初はチベット仏教カルマ派の熱烈な信徒であったのだが、その後、ゲルク派の信仰をある程度は認めるようになり、それによって、1614年までにチベット地方の征服を、ほぼ果たしていると言っても過言では無い状況になっていた。
こうした状況に陥った以上、それこそ明帝国は四周を完全に敵対勢力に囲まれたと言っても過言では無い状況となっていた。
何しろ明帝国の沿岸部は、日本が抑えていると言っても過言では無い。
更に満州を始めとする明帝国の東北部だが、万里の長城以北は後金国が既に抑えている。
そして、人口が希薄なことから、そう厳密なものではないが、万里の長城以北の明帝国の北部から西部はモンゴル帝国が抑えると言っても良い状況になったのだ。
南部にしてもシャム王国は完全に日本の同盟国だし、ベトナム(安南)の後黎朝は内紛が相次いでおり、名目上は明帝国の友好国だが、とても明帝国の頼りにはならない。
つまり、明帝国は四面楚歌といってよい国際状況に陥ってしまったのだ。
(尚、李氏朝鮮は既述だが、既に後金国王を李氏朝鮮国王が父と仰ぐ有様で、後金国の属国に転落していると言っても過言では無かった)
こうした状況を踏まえて、日本政府等は明帝国問題について、最終的解決を図ろうとしていた。
1615年現在、明帝国の内情はボロボロと言っても過言では無かった。
更に難儀なのは、(現代的視点からすれば内政干渉と叩かれるだろうが)明帝国の内情を看過する訳にいかない、と日本や後金国、モンゴル帝国等が考えるようになっていることだった。
実際に、日本等の考えも当然と、傍から見れば言える状況が起きつつあった。
何しろ度々描いているが、明帝国内部では大幅な貿易赤字によって、大量の銀流出と言う事態が起きているのだ。
そのために、(この世界で言えば、で史実の一条鞭法とは微妙に異なるが)税は銀納と、明帝国で定められたことは、明帝国民の納税負担が徐々に増大するという事態を引き起こした。
更に宦官の跋扈等、明帝国内部の腐敗も深刻度を増す一方なのが現実だったのだ。
こうなっては、それこそ歴代の中国王朝が打倒されるに至った一因である農民を中心とする帝国民の叛乱が、この頃の明帝国で起きるのも当然としか言いようが無かった。
実際、その前触れともいえる流民の増大や、明帝国の住民の外国への身売りの増大(細かいことを言えば、日本はとうに奴隷どころか、年季奉公人まで禁止していた。又、後金国や琉球王国にしても奴隷を禁止していた。だが、年季奉公人は健在で、明帝国の住民が年季奉公人になって、後金国や琉球王国に赴くことが多発していた)が起きていては、日本も対策を考えることになった。
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