第78章―15
少なからず話が先走り過ぎたが、1615年当時に話を戻せば、リシュリューは30歳になったばかりで、優秀な若手官僚として周囲から目を掛けられ、更にその名がアンリ4世にまで知られて、国王任命の元老院議員になったばかりの頃であり、フランスの宰相には程遠い状況だった。
又、フランスの国政改革は、まだ緒に就いたばかりと言っても過言では無く、全国三部会を元老院と庶民院に改編したり、全国に複数のエリート養成校を建設したりしたものの、こういった状況に様々な賛否両論が起きるのは止むを得ないことで、これに対して、慎重に国の舵取りをしないといけないのは止むを得ない話だった。
だからこそ、アンリ4世は、王太子のルイ(将来のルイ13世)が1601年生まれで未だに成人していないことも相まって、自らの身辺警護を重視した行動を常に執らざるを得なかった。
もし、王太子が成人する前に自らに何かあれば、フランスが瓦解するという危険を覚えたのだ。
国民との触れ合いを重視しているというアピール、宣伝は決して崩さなかったが、防弾防刃服を盛装の下に常に着込み、又、私服での護衛を隠密裏に周囲に配置し続けた。
実際、その行動のお陰で、1610年のフランソワ・ラヴァイヤックによる襲撃等を、アンリ4世は退けることができて、1615年現在まで生き延びて、国政の舵を握ることができていた。
さて、フランスの現状は、そのような状況だったが、少し目を転じてイングランド等の現状がどうだったかと言うと。
1603年にイングランド(=アイルランド)女王のエリザベス1世が崩御し、更にエリザベス1世の遺言によって、スコットランド王のジェームズ1世がイングランド王に即位したことは、大ブリテン、イギリス国王の誕生を促すことになった。
(細かいことを言えばだが、ジェームズ1世はエリザベス1世のいとこの孫になり、極めて薄いがイングランド国王の王位継承権を保持していた。
そうした背景等から、ジェームズ1世(イングランド王としてである。スコットランド王としては、ジェームズ6世)が、イングランド王に即位することになった)
エリザベス1世としても、正直に言って、誰を自らの王位継承者に指名すべきか、文字通りに最期まで悩んだ末だった。
そもそも論から言えば、エリザベス1世がイングランド王に即位することさえ、当初はイングランド国内外から疑問の声が挙がっていたのが(史実でもそうだが)現実だったのだ。
何しろ実父のヘンリー8世によって、エリザベスは庶子であるとされ、第三継承法によって王位継承権が特例として認められている有様だったのだ。
更に言えば、弟のエドワード6世は遺言で、自らの王位継承者として(エリザベス1世らからすれば遠縁になる)ジェーン・グレイを指名していたのであり、それをクーデターで覆して、メアリ1世が即位する事態が起きたのだ。
更にメアリ1世が子どもを産むことなく崩御したことから、エリザベスに王位が回ってきたのであり、こうした背景からすれば、エリザベス1世の玉座は砂上の楼閣に過ぎない、と当初は言われて当然のことだった。
それからの長い歳月の流れの中で、国の内外からエリザベス1世の玉座は認められはしたが。
こういった前提事情が、エリザベス1世の後継者問題に様々に昏い影を落とすのは必然のことで。
こうしたことが、エリザベス1世に生涯独身を貫かせる事態を引き起こしたと言え、更にはエリザベス1世が自らの遺言に至るまで、明確に次期国王を指名できないという事態を引き起こしたのだ。
だが、その一方で、エリザベス1世の寵臣のロバート・セシルらが動いてジェームズ1世が即位したのだ。
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