第78章―14
とはいえ、単純に全国三部会を全面廃止しては、貴族等の大きな反発を、アンリ4世は受けることになる。
だから、全国三部会を、貴族から成る元老院と平民から成る庶民院とに改編することになった。
そして、元老院と庶民院を、日本の貴族院と衆議院を参考にして、常設の立法や財政を司る機関として設置することにしたのだ。
(最も日本や日系諸国では、衆議院というか、一般市民から構成される議会では、1615年時点では男女共に有権者で、更に納税金額等には捉われない普通選挙が採用されているのが通例だったが。
フランスの庶民院では、1615年になっても、極めて高額の直接納税者のみが選挙権や被選挙権を持つとされており、フランス国内の成人男性の1パーセント程しか選挙権等は持っていなかった。
これは、全国三部会の第三部会が都市代表を集めることによって成立していたという歴史的経緯から、当然に高額の直接納税者であるべきという考えが、当時のフランスでは強かったという事情からだった。
とはいえ、日本や日系諸国からの影響を受けたことから、選挙権等の拡大が徐々にフランスでも起きていくことになる)
尚、余談に近いが、元老院と庶民院と言う名称変更については、一時は上院と下院にすべきという主張がかなり強かったのだが。
貴族階級が上院、平民階級が下院では、身分差別が固定するという批判が巻き起こり、更に旧第二分会には少数とはいえ、国王が任命する議員も参加することになったことから。
元老院と庶民院という名称が採用されることになった。
その一方で、フランス国内の教会領の多くが、主に16世紀末の頃に王室領に寄進されたことは別の影響を引き起こした。
アンリ4世は、これを財源にして、貧困層出身であっても、国の政治等を担うエリート層になれる学校を造ることにしたのだ。
初級教育と高等教育のどちらを重視して、優先すべきなのか。
悩んだ末にアンリ4世は高等教育を重視して学校を造った。
この学校だが、日本や北米共和国等から教員を招く等して、欧州随一といってよいエリート養成学校になり、更にフランス国内に複数が建設されることになった。
(史実で言えば、グランゼコールに相当する学校である。
最もメタい話をせねばならないが、この世界では法律や医学等も学部によっては、この学校は必然的に教えることになった。
それこそ積極的に日本や日系諸国から様々な学問の導入を、フランスは図らねばならなかったからだ。
そのために様々な分野における優秀な人材が、この学校からは巣立つことになった)
少し話が先走るが、ルイ13世時代に欧州随一の名宰相と謳われたリシュリューが、この学校の一つの最初期の卒業生の一人になる。
リシュリューの生家は下級貴族ではあったが、ユグノー戦争によって家産の多くを失い、貴族の体面を保つどころではなく、幼少期の頃のリシュリューは三男坊ということもあって、(貴族としては)貧困にあえぐ有様だったのだ。
だが、その優秀な頭脳を周囲に評価されたことから、この学校の一つに入り、そこで政治学等の様々な知識を学んだことから、更に官僚として採用されて、そこでも周囲に評価されたことから、国王任命の元老院議員にリシュリューは若くして選ばれたのだ。
そして、学校の先輩や同級生、後輩といった学閥を自分や周囲が活かしあった結果、リシュリューは側近を自らの学閥で固めて、フランスの国力涵養を十二分に行うことができた。
更に言えば、リシュリューやその周囲の優秀な人材を輩出したことをきっかけに、この学校はフランスきっての名門校となり、パリ政治学院として後世にまで世界の名門校の一つとして遺ることになった。
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