第78章―13
細かいことを言えば、フランスの三部会は全国三部会と地方三部会があり、更に歴史的状況による変遷までもあり、それこそ、そういった変遷までも描こうとすれば、1冊の新書が最低でも必要になる程だ。
だから、(この世界なりの)要約した説明に成らざるを得ないが。
フランス王国の国王権力に基づく中央集権化が進んだことにより、14世紀に成立した身分制議会といえる三部会は、徐々に招集されることが減少して、16世紀末にはフランス王国内の三分の二の地域で地方三部会は廃絶したといえる状況に陥っていた。
又、全国三部会にしても、何年どころか何十年も招集されないのが当たり前になっていったのだ。
(例えば、1484年に全国三部会が招集された後、次に全国三部会が招集されたのは1560年になってのことになった)
だが、ローマ帝国復興(というか、「皇軍来訪」)とそれに伴う様々な余波は、フランス王国に対して大津波に襲われたような衝撃を結果的に引き起こした。
それ以前から行われたユグノー戦争という王位継承も絡んだ内乱が、フランス王国で起こっていたという事情がかなり大きかったのも確かだが。
1595年にユグノー戦争が一段落したことも相まって、フランス王国がローマ帝国と同盟して、ウクライナへの派兵を決断した当時。
イングランド海軍の英雄といえるドレーク提督に、
「フランス海軍は板切れ一枚、今やイングランド海軍の許可なくして、海に浮かべることはできない」
と嘲笑される惨状をフランス海軍は呈していた。
(実際、フランス海軍はガレー船や帆船しかない状況で、史実で言えば阿賀野級巡洋艦を旗艦とするイングランド海軍と対峙しているといっても間違いなかった)
又、往時の宿敵であるスペイン陸軍からは、
「かつては欧州最強を自称していたフランス陸軍だが、マスケット銃やパイク(長槍)を装備する歩兵で、ボルトアクション式小銃を歩兵全員が装備している我が陸軍と対決しようとは、発狂したのか」
と哀れまれる状況だった。
ともかく、こうした状況からフランス軍はウクライナへと赴き、そこで流した血の代償として、大量の兵器をローマ帝国から提供され、又、様々な指導を受けたことから、大幅な質的向上を果たせた。
更にそこで学んだ様々なことを活かして、フランス王国の内政改革も行われることになった。
そして、内政改革の必要性をフランス王国内外に明確に示すために、全国三部会が久々に開かれようとしたのだが、ローマ教皇庁の動きは、ローマ帝国の内意もあって甚大なものがあった。
ローマ教皇庁は、フランス国内の聖職者に対して全国三部会への出席を拒むように公言した。
「今やカトリック教会の聖職者は、自らの利害に直に関しない限り、世俗の政治に関わってはならぬ。カエサルの物はカエサルに、神の物は神にです」
と教皇勅書まで、この件では発出された。
このような教皇勅書が出る一方、フランス国内では、
「カトリック教会の聖職者は、結局はローマ教皇庁の背後にいるローマ帝国の指示で動くのではないか。そうなっては、フランスがローマ帝国の属国に何れは陥りかねない」
そんな噂が大規模に流れる事態が起きた。
これは、政教分離を進めようとするローマ帝国の内意から起きた事態なのだが。
この事態から、アンリ4世は全国三部会の廃止を決断することになった。
フランス国内の伝統を重んじる一部の有力者は、アンリ4世のこの決断を非難したが。
「もし、世間の噂の通りにカトリック教会の聖職者を介して、ローマ帝国がフランスの内政に介入したらどうするのだ」
このアンリ4世の反論の言葉の前に、全国三部会廃止反対論者はその通りだと沈黙するしかなかった。
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