第78章―12
こうして、1608年にドイツ帝国の新体制は確立されることになったが、ドイツ帝国というよりもハプスブルク家の苦難は終わってはいなかった。
時の皇帝ルドルフ2世は、こういった帝国改革の重圧もあったのか、1598年以降は躁うつ病(統合失調症説もある)を徐々に悪化させてしまい、少しずつ帝国の舵取りは摂政団が担う事態となった。
本来ならばルドルフ2世の弟マティアスが摂政に就任すべきだったが、ルドルフ2世とマティアスの仲は険悪で、ルドルフ2世はマティアスの摂政就任を拒否したのだ。
(二人の仲が険悪になった発端だが、ルドルフ2世の文化的才能にマティアスが嫉妬したためとも、ルドルフ2世とマティアスとの間で信仰問題についての意見が食い違ったためとも言われるが、実際のところは二人の間でしか、分からないことである。
だが、二人の仲が険悪になった結果、マティアスは件のミュンスター会議等において、ルドルフ2世の方針を徹底的に妨害したのは事実で、それもあってマティアスは摂政に成れなかった)
しかし、ルドルフ2世が1612年に崩御すると、帝位継承者第一位であったマティアスが、結果的にドイツ皇帝に即位することになった。
最もマティアスには嫡出の男の子がおらず、何れは従弟のフェルディナント(2世)がドイツ皇帝に即位するのが決まっている状況だった。
そして、フェルディナントは、ゴリゴリのカトリック強硬派で、ドイツ帝国を出来ればカトリック信徒が絶対多数を占める国にしたい、と考えており、又、新たな「金印勅書」はドイツの統一を阻害するモノとして、新たに中央集権化を進めた「金印勅書」を定めたいとも考えていた。
だが、ドイツの四面皆敵の状況は、それをとても許さない有様であり、少し先走るが、1619年にフェルディナントはドイツ皇帝に即位するものの、自らの理想と現実の狭間で悪戦苦闘することになる。
余りにもドイツ帝国に関する話が長引いたので、次にフランス王国について述べる。
1615年現在、(この世界の)フランス王国は、アンリ4世の統治が未だに続いていた。
アンリ4世はプロテスタントからカトリックに改宗しており、何度か暗殺の危機にさらされたが、防弾防刃服を着用すること等で身を護っていた。
更に警護兵の装備も充実するようになっており、短機関銃等で警備兵は武装するようになっていた。
このためにアンリ4世は、未だに健在だったのだ。
ちなみに余談をすると、この世界のアンリ4世は、ローマ帝国のウクライナ解放戦争にフランス王国が協力したことから、エウドキヤ女帝の口利きもあって、ローマ教皇庁から最初に結婚したマルグリット・ド・ヴァロワとの離婚を認めてもらうことができた。
そして、当時、最愛の愛妾だったガブリエル・デストレとアンリ4世は再婚しようとしたのだが、ガブリエル・デストレが急死したことから、それは果たせず、エウドキヤ女帝が紹介して来たマリー・ド・メディシスを持参金付きで王妃に迎え入れることになった。
というか、当時のフランス王国の財政事情は、この持参金でさえも財政再建の当てにしないといけない程の惨状だったのだ。
最も、ウクライナ解放戦争でフランス軍が血を流した結果、フランス軍の装備は急激に更新されたし、更にドイツ帝国に起きたのと同様に、フランス王国内の多くの教会領が、フランス国王領になったことから、フランス王国の財政事情は好転し、中央集権化も進められることが出来た。
だが、そうは言っても、ということが生じるのは止むを得ないことだった。
例えば、これまでフランス王国の最高機関といってよい立場だった全国三部会は廃止される事態が起きたのだ。
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