第78章―11
今回の話に出て来る「金印勅書」は1356年にカール4世が発出した「金印勅書」を基本的に指しますが、後半では新たな「金印勅書」が発出されることになります。
だが、これはこれでドイツ帝国の国の大枠を決めていた「金印勅書」を完全破棄する動きとしか、言いようが無かった。
何しろ選帝侯を務めていた3人の大司教が、選帝侯からの完全辞任を表明し、後任者もいない状況に陥ったといえるのだ。
ドイツ帝国の根幹が完全に揺らぐ事態と言えた。
こうした状況下、ハプスブルク家が主導して、ドイツ諸侯を集めてドイツ帝国の新体制を構築しようとする試みが行われることになった。
本来ならば、ウィーンでこうしたことは行われるべきであったが、ウィーンではハプスブルク家が完全に主導権を握って、思いのままの帝国の新体制ができかねない、と多くのドイツ諸侯が忌避したことから、ミュンスターに結果的にドイツ諸侯は集い、帝国の新体制を構築する会議が行われた。
そして、
「会議は踊る。されど、進まない」
という事態が引き起こされた。
これは当然のことで、聖界諸侯が完全に姿を消すといえる中、ハプスブルク家がそういった聖界諸侯領の殆どを獲得したも同然の事態が起きつつあるのだ。
ドイツの世俗諸侯にしてみれば、強大化するハプスブルク家を警戒せざるを得ない。
それこそカトリック信徒である世俗諸侯でさえ、この状況については警戒感が先立つことになった。
プロテスタント信徒である世俗諸侯に至っては、尚更である。
この為に、プロテスタント信徒の世俗諸侯の殆どがウニオン(新教同盟)を結成した。
更にこれに対抗することを大義名分として、本音ではハプスブルク家を警戒して、カトリック信徒の世俗諸侯の殆どがリーガ(カトリック連盟)を結成した。
そして、ハプスブルク家とこの二つの勢力が、会議の中でお互いの主張をぶつけ合い、帝国の新体制を少しでも自らの利益になるようなものにしようと、様々な陰謀までも巡らされる事態が起きた。
1590年から始まったローマ帝国のイタリア領回復戦争から1596年の東西教会の合同宣言、更にローマ帝国の政教分離といった動きを背景に、1590年代末期からドイツ帝国は、この新体制の構築を図らざるを得なくなったのだが。
時の皇帝ルドルフ2世は政治的には無能、と味方からも評される有様で、そうしたことも新体制の構築に苦労する事態となった。
とはいえ、ローマ帝国の軍事的脅威は、往時のオスマン帝国を完全に凌ぐものであり、ウクライナ戦争によって、フランスが軍事面を始めとする改革を行いだしたという情報が入り、更にポーランド=リトアニア共和国まで、ローマ帝国と修好して様々な改革を行いだしたという情報が入っては。
いわゆる帝国内の良識派が、ドイツを護るために三勢力間の調整を行った結果。
1608年に、新たな「金印勅書」が出されることになり、ドイツ帝国の全ての諸侯がそれを受け入れることになった。
ハプスブルク家のドイツ皇帝位の世襲を認める一方、選帝侯が廃止される代償として、王号を称することが旧選帝侯の世俗諸侯には認められた。
その一方、諸侯の内政への介入は、ドイツ皇帝と言えど許されないことになり、帝国内の領邦は内政について完全な主権を認められる一方、帝国の外交に反しない限り、独自の外交権を認められた。
更に皇帝は、帝国全域に適用される法律の制定や、戦争・講和・同盟という外交問題について、新たに設けられる帝国議会の承認を得なければならなくなった。
そして、帝国議会及び裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が明文化され、暗に個人の信仰の自由も認められることになった。
ともかく、ここにドイツ帝国は新体制を確立することが出来た。
だが、その代償として領邦の内政自治を認めざるを得ず、中央集権国家の確立には失敗することになったのだ。
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