第78章―9
こうしたポーランド=リトアニア共和国の様々な改革、更に後述するがフランス王国が試みている様々な改革は、ドイツ帝国にも改革の必要性を痛感させることになった。
だが、ドイツ帝国の改革は極めて困難だった。
勿論、ドイツ帝国にしても、上は皇帝から下は庶民に至るまで改革が必要なのは多くが痛感している。
それこそ南からはローマ帝国の軍事的脅威を受けており、ポーランド=リトアニア共和国の改革は急であって、何れは東方からの侵攻を懸念せねばならないだろう。
北方にしても、北欧の二国、デンマークもスウェーデンも着実に改革を進めようとしており、更にローマ帝国がバルト海への侵出まで図り出したことから、バルト海や北海方面からもドイツ帝国は脅威を受けるようになった、といっても過言では無い。
そして、西方のフランス王国は、ブルゴーニュ公国継承問題等から宿敵と言っても過言では無い歴史的な因縁がある国である。
このように四面皆敵といってよい状況にある中、安穏と過ごすことがドイツ帝国にできる訳が無い。
だが、ドイツ帝国は様々に分断されていた。
後世において、ドイツ帝国の宰相を務めたゲーテが、
「この頃のドイツ帝国は、神聖でもなければ、ローマでもなければ、帝国でも無くなっていた。神聖ローマという称号を返上し、ドイツ帝国と名乗りはしていたが、それは虚しい国号だった」
と喝破せざるを得ない状況だったのだ。
ドイツ帝国の淵源は、神聖ローマ帝国にあるが、この国号にしても歴史的変遷を経たものだった。
神聖ローマ帝国が建国されたといえる時期については、カール大帝が戴冠した800年説とオットー大帝が戴冠した962年説があるが、どちらにしても、この時の国号は単に「(ローマ)帝国」だった。
それが1157年になって、神聖(ローマ)帝国という国号が使われるようになり、1512年に至ると「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号が使われるようになったのだ。
これは(神聖ローマ)皇帝と(ローマ)教皇との長年に亘る様々な因縁、更にイタリアを始めとするドイツの周縁地域における様々な長年の紛争から、この国の姿が変遷したのをいみじくも示している。
そして、このような事情から帝国と言っても、皇帝の力は極めて制限されているといっても過言では無い状況だった。
何しろ、16世紀以降はハプスブルク家の世襲でほぼ帝位継承が安定したが、13世紀半ば以降から15世紀末に至るまでは、帝位を巡る紛争が絶えない惨状だったのだ。
これは、そもそも論になるが、神聖ローマ帝国の帝位継承については選挙制が本来であったこと、又、帝国教会政策から叙任権闘争の中で、帝権の強化が困難であったという事情があったからだ。
そして、帝位を巡る紛争が絶えない中での1356年の「金印勅書」の発布により、神聖ローマ帝国内での領邦国家への流れは止まらなくなり、分権化が進んでしまった。
更には宗教改革勃発によって、神聖ローマ帝国内は大きくカトリック対ルター派プロテスタントに二分されることになり、更には国民、住民の中にはカルヴァン派プロテスタントやユダヤ教徒までもいるという状況に陥ってしまった。
このためにドイツ帝国内部は宗教的にも分断され、領邦国家の集合体といっても過言ではない惨状に至っていたのだ。
だが、幸いと言うべきか、15世紀末以降はハプスブルク家が皇帝位を世襲するようになった。
又、ローマ帝国の復興から東西教会の合同は、選帝侯を兼ねていたドイツ帝国内の大司教領の世俗化を引き起こすことになった。
これは帝国内外から、ローマ帝国の女帝エウドキヤによるドイツ帝国への選帝侯による帝位介入が懸念された為だった。
話中でゲーテの言葉として出て来る言葉は、史実ではヴォルテールが話した言葉を参考にしています。
この世界の流れでは、ヴォルテールよりゲーテの言葉として言わせた方が相応しい気がして、改変して使わせて貰いました。
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