第78章―8
そんな改革を北欧諸国、デンマーク=ノルウェー王国やスウェーデン(=フィンランド)王国が推進しているのを横目で見ながら、ポーランド=リトアニア共和国も自国の国政改革を積極的に行わない訳には行かなかった。
この1615年当時、ポーランド=リトアニア共和国の国王は、1587年の国王選挙の結果、スウェーデン(=フィンランド)王国の国王グスタフ=アドルフの従兄であるジグムント3世が務めていた。
尚、国王選挙でジグムント3世が勝利を収められた要因だが、まずジグムント3世が母方からポーランド王国の最盛期を築いたヤギェウォ朝の血を承けており、又、リヴォニア戦争においてスウェーデン(=フィンランド)王国とポーランド=リトアニア共和国が、対モスクワ大公国(ロシア帝国)と共闘した縁からである。
そして、ジグムント3世は熱心なカトリック信徒であり、ルター派プロテスタントの信仰が盛んなスウェーデン(=フィンランド)王国内では、さっぱり人気が無かった。
こうしたことが、1592年にジグムント3世の父であるスウェーデン(=フィンランド)国王ヨハン3世が崩御した後、一時はジグムント3世がスウェーデン(=フィンランド)国王を兼ねたものの、1598年になって、ジグムント3世がポーランドに滞在していた時機を狙って、ジグムント3世からすれば父方叔父になるカール9世がスウェーデンで大規模な武装蜂起を引き起こすことになった。
これに激怒したジグムント3世は、軍隊を率いてスウェーデンに向かって武装蜂起を鎮圧しようとしたが、上記の事情からスウェーデンの有力者の殆どがカール9世に味方した。
更に、(この世界では)ローマ帝国のウクライナ侵攻という事態までが引き起こされたことから。
ジグムント3世は、スウェーデンから軍を撤退させざるを得ず、カール9世がスウェーデン(=フィンランド)国王として戴冠したのだ。
ジグムント3世としては、スウェーデン(=フィンランド)の奪還を図りたかったが、実際問題としてそれどころではない存在、ローマ帝国の急成長があったことから、ポーランド=リトアニア共和国内の国政改革に積極的に自ら乗り出さざるを得なかった。
何しろ気が付けば、ポーランド=リトアニア共和国東部から南部が、ローマ帝国に抑えられる状況になっていた、といっても過言では無いのだ。
そして、どうのこうの言っても、ローマ帝国のエウドキヤ女帝は、ポーランド=リトアニア共和国にしてみれば、あの宿敵だったイヴァン雷帝の娘なのだ。
更にエウドキヤ女帝が国の内外で示した剛腕を考えれば、万が一、ローマ帝国の本格的な侵攻の矛先がポーランド=リトアニア共和国に向けられたらどうなるか。
それをポーランド=リトアニア共和国の国王から庶民まで考える程、ポーランド=リトアニア共和国の国内改革は急務だった。
とはいえ、あからさまにローマ帝国を敵視する等、ポーランド=リトアニア共和国にできる訳が無い。
ポーランド=リトアニア共和国はローマ帝国の同盟国になる一方、ジグムント3世は自らの妃をドイツ帝国の皇族といえるハプスブルク家から迎えることで、バランス外交を展開した。
実際、東西教会の合同が成ったとはいえ、東方正教会とカトリックの関係は微妙であり続けており、ポーランド=リトアニア共和国の国内情勢からすれば、王妃はカトリックである必要があった。
又、内政改革も必要不可欠だった。
シュラフタ(貴族)からなるセイム(国会)が、ポーランド=リトアニア共和国には予てからあったが、日本や日系諸国を参考にし、人を招くようなことまでして議院内閣制に基づく政府を造ろうと悪戦苦闘が行われたのだ。
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