第78章―4
とはいえ、ユーラシア大陸横断鉄道建設は、余りにも大規模な計画であり、参加している各国内でも様々な温度差があるのは避けられないことだった。
そうしてことから、参加している各国の現時点での状況を、国内情勢も含めて描くが。
まず、ローマ帝国の状況だが。
「やっとペトログラードの建設が完了した、といえる状況になりましたね」
「ええ、ここまで本当に苦労しました」
羽柴秀頼の言葉に、フョードル・ゴドゥノフは即答しながら、眼前に広がる光景に高揚感を覚えた。
本当にここが荒野といっても過言では無かった過去を想えば、よくぞここまでになったものだ。
細かく言えば、荒野というのは言い過ぎで、寒村だったというべきかもしれない。
ネヴァ河の河口部にペトログラードは建設されたのだが、建設当初の住民は本当に少数だった。
歴史的に言えば、古代からの「ヴァリャーグからギリシアへの道」において、この土地はバルト海沿岸地域から、ルーシ(ロシア)の大地を経由してコンスタンティノープルに至る交易路のバルト海沿岸の玄関口といってもよい場所だった。
だが、相次ぐ戦乱等によって、この交易路を活用する商人は激減し、その為にこの地は、かつてはそれなりに商人目当ての人がいたのだが、このペトログラードの建設が始まる頃には、人が少数しか住まない寒村と化していたといっても過言では無かったのだ。
そして、かつては何隻も商船が止まっていた港は、廃港に近かった。
(この辺りについては、細かく言えば異論がある。
実際にペトログラードの建設が始まったときに寒村に近い状況だったのは事実だが。
そうなったのは、エウドキヤ女帝によるロシア奪還、侵攻作戦による影響が極めて大きく、それ以前はそれなりの港町だった、という異論があるのだ。
だが、エウドキヤ女帝が自らの非を認める訳が無く、従前から寒村に陥っていたと主張されている)
そういった状況を一変させたのが、ペトログラードの建設だった。
モスクワ運河等を使うことで、モスクワからバルト海へ出る際の大規模な港町を建設する、とのローマ帝国政府の大号令の下で、この建設工事は行われた。
近隣住民に対しては、惜しみなく賃金がばら撒かれ、又、一部の囚人までも刑期短縮というアメの代償として、厳寒期であってもペトログラードの建設工事が進められる事態が起きたのだ。
その余りの進捗状況から、もし、ペトログラードが本格的な軍港として稼働するようになった暁には、バルト海の制海権をローマ帝国が握る事態が確実に起こるという警戒感が、スウェーデンやデンマーク、ドイツ帝国どころか、本来ならばローマ帝国の同盟国であるポーランド=リトアニア共和国内でも引き起こされる事態までが波及して起きた。
そのために、バルト海や北海では、どうのこうの言っても旧式極まりない帆船やガレー船が軍艦として、この頃までも生き残っていたのだが。
とうとうトドメを刺される事態となり、各国海軍の軍艦は、それこそ史実で言えば第二次世界大戦以降の軍艦へと移行する事態となったのだ。
(速やかに新型の蒸気船というか、軍艦を何故に各国は導入していなかったのか、と言われそうだが。
新型軍艦の導入となると、当然のことながら、多大の国費が必要不可欠で、更にその維持費等もバカにならない事態が起きる。
更に直に日本や日系諸国の海軍の脅威にさらされていない、という事情もある。
こうしたことから、この地域の海軍は中世のままという事態が長く続いていたのだ)
そういった余波まで生じたが、少しでも大規模に、将来を見越してペトログラードを建設しようとした結果として、10年に及ぶ大工事の果てにペトログラードは建設された。
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