第78章―1 ローマ帝国のシベリア侵出とそれに対する諸勢力の対応
新章になります。
尚、主に欧州諸国の行動をこの章では描くことになり、次の章で東アジア諸国の行動が主に描かれることになります。
さて、1615年春当時、ローマ帝国のシベリア侵出は表面上はほぼ完了していた。
例えば、日本を仲介国として、ローマ帝国のシベリア領と、後金国の沿海州や満洲領との国境線は、細かいことを言えば未画定部分があったが、ほぼ画定済みといって良い状況になっていた。
(史実で言えば、ネルチンスク条約に准じて国境線は画定された)
そして、この世界においては、チャハル部のリンダン・ハーンの西進は、モンゴル帝国の復興を結果的に引き起こしていた。
モンゴルから中央アジアに掛けての一帯で、ローマ帝国の侵出に脅威を覚えたことと、リンダン・ハーンが正統なモンゴル(いわゆる北元)帝国の後継者であることが相まって、モンゴル系やトルコ系の民族が競うようにリンダン・ハーンの麾下に馳せ参じる事態が引き起こされていたからだ。
勿論、リンダン・ハーンの麾下になったとはいえ、実際には名目上と言っても過言では無く、内政に関しては旧来の族長、指導者が完全に握っていて、リンダン・ハーンが介入できない民族、氏族が大半をモンゴル帝国においては占めていると言っても過言では無かったが。
そうは言っても、リンダン・ハーンをハーンとするモンゴル帝国が復興した、と言える状況だ、とリンダン・ハーンが強弁できる状況なのは間違いなかった。
そうしたことから、これまたローマ帝国とモンゴル帝国の間では、史実のキャフタ条約等に准じた国境線の画定が徐々に行われつつある現状があった。
とはいえ、それが仮初めに近いモノなのが、ローマ帝国にもモンゴル帝国にも分かっていた。
この辺りは、モンゴル帝国が遊牧民族を主体、統治者とする国家である以上は、止むを得ないと言っても過言では無かったからだ。
農耕を中心とする定住民が主体の国家の場合、国民、住民が移動することは少ない。
だが、遊牧を主体とする民族となると、季節等を背景に国民、住民が移動するのは当然だ。
更に言えば、そうした事情から土地についても、私有の概念が極めて弱い事態が引き起こされる。
(極論に近い主張になるが、移動して自分達の氏族を養うのが当然である以上、移動した先のあの土地は自分達の氏族全員のモノと言う考えが当然になるのだ)
とはいえ、そういったことを行っていては、今や戦乱を積極的に引き起こす事態になるのを、リンダン・ハーンやその周囲は分かるようになっていた。
だから、リンダン・ハーンやその周囲は、後金国やオスマン帝国、日本までも介して、ローマ帝国に対してモンゴル帝国は敵対する意図が無いことを主張、弁明するようになっていた。
そして、後金国やオスマン帝国、日本は復興が為されたモンゴル帝国、リンダン・ハーン及びその周囲の主張は最もだ、としてローマ帝国にモンゴル帝国の主張を認めるように働きかける事態が起きた。
だが、そうはいっても、ローマ帝国と言うよりも、ロシア帝国(モスクワ大公国)の住民等にしてみれば、モンゴル帝国による「タタールの軛」の恨みは、そう忘れられる代物では無かったのだ。
特にローマ帝国の女帝エウドキヤが、「タタールの軛」の恨みに捕らわれていた。
(何とも皮肉なことに、エウドキヤ女帝自身は、「タタールの軛」の恨みを直に体感してはいない。
だが、それこそ周囲から「タタールの軛」の恨みを何度も聞かされたことによって、エウドキヤ女帝は「タタールの軛」の恨みを痛感するようになったのだ。
この辺りは歴史認識の継承の難しさとしか、言いようが無いことだった)
ともかく、そうしたことから、ローマ帝国とモンゴル帝国の対峙状況について、日本を始めとする周辺諸国は色々と配慮をして、それなり以上の行動を実際にせざるを得なかった。
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