第77章―19
視点が変わり、直江兼続視点の話に、この話はなります。
(尚、保守党とこの世界の上杉家が主な話です)
そんな裏があった末に、1614年の新首相の指名等が行われる特別国会が開催されることになった。
「ふん」
直江兼続にしてみれば、色々な意味で忸怩たる想いをしながら、特別国会に臨んでおり、鼻を鳴らさないではいられない気分だった。
衆議院議員総選挙において、保守党は大敗した。
当然のことながら、保守党内外からこの敗北について批判の嵐が巻き起こることになり、尼子勝久は保守党の党首から辞任せざるを得なくなった。
そして、保守党における恒例といえるが。
党内の様々な派閥や有力議員の合従連衡(尚、当然と言っては何だが、直江兼続は上杉景勝の懐刀として表裏両面で奔走することになった)が行われた末に、保守党の衆議院議員総会の結果、上杉景勝が保守党の新党首に就任することになった。
だが、直江兼続にしても、上杉景勝にしても、余りにも時機を逸した保守党党首就任になった。
上杉景勝は1556年生まれであり、60歳が目前という現実があった。
(尚、直江兼続は1560年生まれである)
(この世界では)60歳を過ぎれば高齢者という意識が強く、次期衆議院議員選挙では、上杉景勝は引退を余儀なくされる可能性が強い。
本来ならば、それを見越して上杉景勝は、後継者育成に励むべきだったのだが。
(この世界では)史実同様に実子に上杉景虎(謙信)が恵まれなかったことから、上杉景虎は上杉景勝を養子に迎える事態が起きており、更に陸軍軍人同士の友誼があったことから、武田晴信の娘にして、武田勝頼の妹を、上杉景勝は妻に迎えることになった。
ところが、夫婦の間に実子は産まれず、その為に景勝は何人か妾を作りもしたが、それでも実子には中々恵まれずで、結果として四辻公遠の娘を妾にすることで、ようやく定勝という実子が産まれた。
だが、定勝が産まれたのは1604年のことであり、未だに小学生という頑是なさだった。
そうしたことから、景勝は外甥(姉の息子)になる上杉憲実(道満丸)を、取りあえずは第二秘書にして、様々な衆議院議員活動に関する見識等を深めさせ、自らの後継者にするつもりだったが。
上杉憲実は1571年生まれであり、(この世界では)次期の衆議院議員に出馬するには既に40歳代後半で、高齢との批判が避けられないのが現実だった。
(何しろ、(この世界では)伊達政宗は20歳代後半で、宇喜多秀家にしても30歳で、衆議院議員に出馬当選している現実がある。
勿論、二人が労農党の若きエースとして期待された側面が大きいのは否定できないが、そうはいっても40歳前後で衆議院議員選挙に出馬するのが、基本という意識が強い以上、憲実は高齢批判がとても避けられないのが現実なのだ)
更に、この後継者の一件は、思わぬ波紋も呼んだ。
四辻公遠の娘は出産が難産で、産後の肥立ちが良くなく、それこそ医師が匙を投げて、最後には祈祷にまで頼ったが、定勝が1歳になる前に亡くなった。
(尚、武田晴信の娘である景勝の正妻は、四辻公遠の娘より、やや先立って亡くなっている)
景勝にしてみれば、四辻公遠の娘が元気になれば、後妻として迎えるつもりだったのだが、思わぬ誤算となった。
だが、禍福は糾える縄の如し、四辻公遠の息子の猪熊教利が「猪熊事件」を起こしたのだ。
もし、四辻公遠の娘が景勝の後妻だったら、陰で色々と景勝にまで火の粉が飛んだだろうが、既に娘が亡くなっていたことから、景勝は無傷で済んだ。
(もっとも、この事件もあって、「保守合同」の際に勧修寺流の諸家からの圧力に、景勝は屈せざるを得なかった)
直江兼続は、改めて想った。
後継者の一件といい、本当に人生はままならぬもの。
全く伊達政宗の笑顔に八つ当たりしたくなる。
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