第77章―15
実際に表面上は揉めない事態になったが、この1614年の衆議院議員総選挙の結果を踏まえた上での内大臣人事は、色々と日本政府最上層部の頭が痛い事態を引き起こした。
本来的には、これまでの慣例からしても、伊達政宗率いる労農党が衆議院議員総選挙で勝利を収めた以上は、長年に亘って、労農党とは対峙している近衛家なり、一条家なりから、内大臣が選任されるべきだった。
だが、この1614年当時、それは極めて難しい状況にあったのだ。
この時よりも、細かく言えば、前後することになるのだが。
「本当に近衛前久殿が、「皇軍資料」の通りに薨去されるとはね」
「完全に現実から目を背けている発言の気がします」
「だって、本当になると、私は考えたくなかったもの」
磐子は少し時が経った後で様々なことを思い起こし、更にその際の鷹司(上里)美子とのやり取りまでも、見ざる、聞かざる、言わざるを貫く「天皇の忍び」としては本来的には許されないことだが、細かく思い起こしては考えざるを得なかった。
1612年に、近衛前久元内大臣にして元太政大臣は薨去していた。
更に1611年に、一条内基元内大臣も薨去していたのだ。
そうした状況を受けて、1614年時点で鷹司(上里)美子は遠くを見ざるを得なくなっていた。
鷹司(上里)美子としては、完全に頭を抱え込む事態だった。
近衛前久元内大臣が薨去した以上、成人している反労農党系の摂家当主は近衛信尹しかいない。
(一条内基の後継者の一条昭良は、1614年時点で9歳である)
だが、この辺りは「皇軍資料」通りなのか、近衛信尹は(メタい話だが、現代で言えば)アルコール依存症といっても過言では無い状況で、とても内大臣が務まらない体調になっていた。
(更に言えば、1614年末に近衛信尹はアルコール依存症から来る肝障害等から薨去する)
だから、本来ならば、労農党が日本の与党政府の立場になった以上、近衛家か一条家から内大臣を出すべきなのに、それが不可能な状況に陥っていたのだ。
それでは、誰が内大臣を務めるべきか。
何で24歳で貴族院議員にもなっていない私が、と内心で零しつつ、鷹司(上里)美子が内大臣として白羽の矢を立てたのは、二条昭実だった。
(実際問題として、従来から内大臣人事は宮中の専権扱いがされており、今上(後水尾天皇)陛下が任免権を握るのが当然と公家の面々、宮中の周囲は考えていた。
そして、この1614年当時、今上(後水尾天皇)陛下に対して内大臣を推挙できるのは、尚侍という立場もある鷹司(上里)美子だけと言っても、間違いではない状況だった。
何しろ精神的には鷹司(上里)美子は、既に今上(後水尾天皇)陛下の寵姫と言って良い。
だから、鷹司(上里)美子が言上すれば、今上(後水尾天皇)陛下はその人物を内大臣に任命する。
そして、九条兼孝は鷹司(上里)美子の養父であり、鷹司信房は鷹司(上里)美子の義父になる。
だから、少しでも身内贔屓という批判を鷹司(上里)美子が避けるとなると、二条昭実しか内大臣に成れる人物はいなかったのだ)
とはいえ、言うまでもないが、二条昭実は、義理とはいえ伊達政宗の従兄であり、労農党を準与党として8年に亘って、日本の首相を務めてもいる。
だから、止むを得ない事情とはいえ、日本政府の上層部、国会議員等は眉をひそめることになった。
鷹司(上里)美子は、改めて決意せざるを得なかった。
現状を考える程、今上(後水尾天皇)陛下を、様々な文芸の路に進ませて、日本の政治経済から引き離す方向に、私は動かざるを得ない。
「君臨すれども統治せず」という日本の立憲体制を維持するとなると、私が泥をかぶらざるを得ないのだろう。
本来の君主は積極的に政治を行うのが当然ですが、立憲君主制のこの世界の日本では、今上陛下が積極的に政治を行うのは許されないことで、鷹司(上里)美子は今上(後水尾天皇)陛下をそのように教導しようと考えているのです。
ご感想等をお待ちしています。




