第77章―13
さて、何故に伊達政宗が小早川道平の下を密かに訪ねて、労農党と中国保守党の連立について、小早川道平に沈黙するように依頼したのか。
更に小早川道平がそれを快諾したのか。
少し裏を交えて説明すると。
小早川道平が中国保守党の党首後継者として指名したのは、吉川広家である。
更に吉川広家を指名したということは、暗に「保守合同」を道平が認めたということだった。
道平としては、異父姉の織田(三条)美子が「保守合同」を激怒して潰すとは考えていなかったのだ。
姉が怒ることはあるだろうが、まさか潰すように動くことはあるまい、それが道平の見たてだった。
ところが、美子が激怒して行動した結果、「保守合同」は事実上は潰れてしまった。
又、中国保守党の「保守合同」反対派は、小早川道平の従前の言葉を持ち出して、吉川広家を論難するようなことまでやったのだ。
これらのために、小早川道平は吉川広家が率いる中国保守党主流派と気まずい関係になった。
とはいえ、小早川道平にしてみれば、中国保守党は自らの子どものようなモノで、気に掛けない訳には行かない存在である。
だが、現在の中国保守党内はごたついており、それこそ兄弟喧嘩に父が介入して、更に兄弟仲を悪くする事態を引き起こす訳には行かない。
だから、道平としては沈黙を保ちたいだろう。
政宗は道平の胸中をそのように推測していて、実際に道平の胸中はその通りだったので、道平は政宗の依頼を快諾したのだ。
さて、政宗がそのように動いていたのと前後して、宇喜多秀家らが表から、広橋愛らは裏から中国保守党内に手を伸ばしていた。
中国保守党としても、党内立て直しは急務であり、その方策として2つが主に考えられていた。
まず、一つ目が右派勢力の大同団結を訴え、「保守合同」を再興しようという方策である。
2つ目が、何とか与党に入って、与党の旨味で支持者を集めようという方策である。
毛利輝元としては、2つ目の方策を取りたかった。
何しろ「保守合同」に反対した過去があり、更に「保守合同」を推進していた吉川広家を追い落として党首に就任したのだ。
1つ目の方策を取っては、それこそ自分の過去の言動に反するし、吉川広家を追い落とした理由は何だったのか、ということになる。
かといって、2つ目の方策を執ろうにも、労農党は衆議院で単独過半数を得たのだ。
労農党が与党への参画を受け入れるのか、といえば、極めて難しい、と毛利輝元自身も、更には周囲の面々も考えざるを得なかった。
そうした中で、労農党から中国保守党に与党への参画打診が、表裏両面からあったのだ。
毛利輝元やその周囲としてみれば、舞い上がりたいような話だが、それなりに裏を警戒せざるを得ない。
そうしたことから、その理由を宇喜多秀家に毛利輝元らは直に問いただすことになった。
宇喜多秀家は育ちの良さを感じさせる態度で、毛利輝元らを懐柔した。
(この世界の宇喜多秀家は9歳で父の宇喜多直家と死別した後、織田信長夫妻の後見で育ちました)
「ざっくばらんに申し上げましょう。大内家から毛利隆元殿に、更に中国保守党に受け継がれたという対明外交の様々なことを活かさねばならないときが来つつあると、党首の伊達政宗は考えています。それに我々も賛同して、中国保守党の取り込みを考えた次第です」
「ふむ。確かに筋は通っておりますな。確かに明の国内情勢は、累卵の如く危うい」
「明帝国が崩壊して内乱状態になったら、最悪の場合は1千万人を超える難民が生じる、とも推測されています。そういった事態が生じれば、それこそ日本本国に大量の難民が殺到する危険があります」
「確かにその通りですな」
秀家と輝元の会話は、順調に進んだ。
予め明かしておきますが、この世界の宇喜多秀家は、織田信長夫妻に鍛えられて育ったこと等から、父に似た黒い政治家です。
その為に史実の秀家とは違う、といわれる事態が後で起きます。
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