第77章―8
ともかく、こういった背景を踏まえた上で、文字通りに年単位で女性の衆議院議員候補者を選考して、更にそういった候補者に選挙区を割り当てて、、そこで懸命に将来の衆議院議員として磨き上げる作業を、党首の伊達政宗自ら率先垂範して、1610年以降の労農党(の主流派)は行ったのだ。
迂遠極まりないと労農党の内外から批判の声が寄せられ、又、男性優位の考えが抜けない旧来の労農党の支持者からの支持を失うことでもあったが。
年単位で頑張った甲斐があり、徐々に女性の衆議院議員候補者は磨かれていき、選挙区の有権者との懇話会等を行う中で、徐々に好意的な反応を有権者から引き出すという事態が起きたのだ。
こうしたことから、1614年の衆議院の総選挙において、
「日本の憲政史上初の事態ですね」
「感無量でしょう」
「ありがとうございます。有権者の皆様の支持を得て、このような結果を迎えられました」
多くの記者を前にして、伊達政宗は満面の笑みを浮かべながら、勝利の会見を行うことができた。
1614年の衆議院総選挙において、労農党は単独で過半数を得ることに成功したのだ。
これまでにも予め選挙前から政策協定を結ぶ等の施策による連立工作により、ある勢力が衆議院の議席の過半数を占めることはあったのだが、保守党どころか労農党でさえも単独で衆議院の議席の過半数を握ったことは無かった。
1610年に「保守合同」が図られたのは、そういった状況を打破し、右派が結成する(新)保守党によって、衆議院の過半数を握ろうとする動きだったが、左派の労農党を主とする反撃により、結果的には左派によって衆議院の過半数が握られる事態が起きたのだ。
その一方、この記者会見の場で、伊達政宗はぬかりなく記者の質問に答えながら、色々と内心ではこの勝利については考えざるを得なかった。
本当に薄氷を踏むような勝利だったのを、この場に集っている記者のどれだけが分かっているのか。
右派による「保守合同」が事前に試みられており、それが失敗しながらも、引き続き脅威であり続けたという裏が無ければ、この結果はあり得なかっただろう。
それがあったからこそ、この際、左派勢力を結集して、更に新規の支持者を獲得するために、女性の候補者を積極的に擁立しよう、という自分を中心とする主流派の主張を、主流派に反対する党内外の勢力が最終的には、渋々ながらも反対しきれなかったのだ。
何とも皮肉なことに、1574年以来、労農党は与党慣れしていたのだ。
だから、自分が「保守合同」が成功すれば、労農党は万年野党になりかねない、それを阻止するためにも云々、と女性の候補者拡大を具体的な論理に基づいて主流派が主張すれば、主流派に反対する党内の諸勢力も反対しきれない事態が起きた。
与党になるためならば、自分が煮え湯を呑むのは止むを得ない、と彼らの多くが考えたのだ。
更に言えば、右派勢力にしてみれば、これまでの選挙結果からして、保守党と中国保守党以下の右派勢力が合わされば、万年与党勢力に成れるという慢心もあったようだ。
こういった切迫感の差が、最終的には労農党の勝利をもたらした気が自分はしてならない。
勿論、腰を据えて行われた女性候補者の選考や、その後の様々な現場における指導や、有権者への働きかけが功を奏したのは言うまでもないが。
それでさえ、様々な改革に際しては宿命的に起きる事態とはいえ、ある程度は旧来の支持者を失うことを覚悟しながら行い、実際に一部の支持者からの支持を失うことになったのだ。
だから、自分のバックにいる主流派の支持も、時として揺らぐ程だった。
そんなことを思い浮かべつつ、伊達政宗は勝利の余韻に浸った。
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