第77章―6
こうしたことから、労農党の女性の衆議院議員候補者拡大方針は、一苦労どころではない事態を引き起こしたが、(どうしてもメタい話になるが)この世界の日本には有利な点があった。
まず第一に、それこそ思わぬことが起きる、具体的には内閣不信任案が可決されるか、内閣信任案が否決されるかしない限り、臨時の衆議院議員選挙が行われないということである。
だから、伊達政宗は腰を据えて4年先の衆議院議員選挙の準備を進めることになり、又、その間に女性の衆議院議員候補者を募集して鍛える時間的な余裕がある、と考えて行動することができて、それについては、労農党の執行部を支える主流派どころか、反主流派も認めざるを得なかった。
更にこの世界の日本は、(現実の昭和後半から令和の)日本と比べて人口が少なくて分散していた。
それこそ人口減少に転じたといっても、未だに1億人以上の人口を現在の日本は誇るが。この世界の日本本国は、(北海道や沖縄が含まれていない影響もあるが)1615年になっても3000万人にまで、未だに人口はいなかった。
(尚、この世界の国勢調査に基づけば、1610年代後半に入ってから、日本本国の人口は3000万人越えをはたすことになる)
そして、現実世界の東京一極集中のような事態も起きていなかった。
勿論、この世界の日本の首都である京やそれに隣接して発展している大坂や神戸に、人口が集中していない訳ではないが、それこそ山城県や摂津県、更にそれに隣接する大和県や河内県や和泉県北部、又、播磨県や丹波県の最東部周辺や近江県の最西部周辺といった、この世界の日本の首都圏人口は、1615年当時に約200万人近いと推定されるような現実があった。
(この辺りが推定になるのは、何処までが日本の首都圏になるのか、下手をすると甲論乙駁の議論が引き起こされるという背景があった。
例えば、大和県の吉野村や近江県の米原町、播磨県の姫路町が(この世界の)日本の首都圏に入る、と言われると。
多くの日本本国民からすれば、それはどうなのか、と反論の声が挙がるが。
それならば、大和県や近江県、播磨県等の何処までが首都圏か、というと議論が絶えなくなる現実が、この当時は起きていたのだ)
これは言葉が悪いが、地方でも開発等の余地があり、そういった背景も相まって日本全国統一の最低賃金を施行等する必要があるという意識が、この世界の日本ではあるのが大きかった。
そうしないと地方でも人が確保できない現実があったのだ。
だから、首都圏への人口一極集中の度合いが弱まる事態が、この世界の日本では起こっていた。
だが、そうなると首都圏でも人手不足をそう軽々しく考える訳には行かず、それこそ真面目で有能に働ける者は老若男女を問わずに、それなりの処遇、具体的には高賃金を払ってでも人材を確保しようという考えが経営者の間では当然になってくる。
更に労働者の側も、同じように働くのならば、老若男女を問わずに同じように賃金を求めて当然ではないのか、賃上げ等の処遇改善をしないのならば転職してでも良い処遇を求めて当然という意識になった。
(何しろ、この世界の日本では年功序列賃金制度という考えがないと言っても過言では無いのだ。
勿論、仕事に熟練すれば賃上げがあって当然だが、長年勤めただけでは平均以上の賃上げが無くて当然という意識が強かった)
そういった背景事情があったことから、労働組合の女性部の力も強いモノがあった。
少しでも女性差別と思うようなことがあれば、女性部だけでも容赦なく経営者に対して噛み付くのが当たり前だった。
そういったことから、女性の組合員も男性と共に戦う存在になっていたのだ。
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