プロローグ―4
鷹司(上里)美子が、近衛前久を皮切りに他の摂家の面々に、「皇軍資料」の速やかな焼却処分を働きかけている前後、今上(後水尾天皇)陛下御自身は、改めて「皇軍資料」が示している鷹司信尚が若死にする一方で、自らが長命するという運命を知った経緯を思い起こし、信尚が若死にした後は、速やかに美子を中宮に迎え入れたいと考えていた。
自らが皇位に即位するまで、今上(後水尾天皇)陛下は「皇軍資料」について、「皇軍」が来訪しなかった日本等の世界の歴史を記しただけの資料と考えていて、何で大事に保管されているのか、とさえ軽く考えていたものだった。
その考えを覆し、自分に甘い毒を流し込んだのが、実父の後陽成上皇陛下だった。
近衛前久殿らが動いた結果、実父の後陽成上皇陛下は事実上は強制的に譲位せざるを得なくなり、自分が皇太子から今上陛下と呼ばれる立場になった。
このことに父は凄まじいまでの反感を私に覚えたようだ。
だからこそ、甘い毒を私に流し込んだのだ。
私が即位して少し後、父に対して皇位を示す御物を自分に譲るように直に求める事態が起きた。
父は私に対する嫌がらせから、御物を譲らないと言っていて、それを周囲が諫めたら、そこまで言うのならば、私自身が自分の下に来い、と言い放ったのだ。
私は気が乗らなかったが、赴かない訳には行かず、父に頭を下げに赴いた。
「よく来たな」
父の言葉に、私は(内心で)溜息を吐いた。
自分から譲位だ、と喚いておいて、私に譲位したら、押し込めだ、と言う父に私も愛想が尽きていた。
「良いことを教えてやる。お前は鷹司(上里)美子に惚れているだろう。「皇軍資料」によれば、1621年に鷹司信尚は死ぬとのことだ。その後、美子と結婚したらどうだ。お前は80歳過ぎまで生きるとのことだしな」
「えっ」
父の言葉に私は絶句せざるを得なかった。
1621年ということは、自分は25歳、美子は30歳だ。
(この当時の感覚的には)お互いに晩婚の感が否めないが、まだまだ自分と美子の間に実子が望めるだけの年齢で、結婚してもおかしくない。
更に自分が本当に80歳過ぎまで生きられるのなら、美子と何十年も連れ添えることになるのでは。
私は思わず甘い夢を見た。
私の考えを察したのだろう。
父は更に言葉を継いだ。
「嘘か否か。「皇軍資料」を見ればよい。儂はもう見れぬが、お前なら見れるだろう。「皇軍資料」に記された通りに病で死ぬ人は、ほぼ確実に死んでおる。お前も鷹司信尚も何時、死ぬのかが分かる訳だ」
「そうですか」
私は敢えて素っ気なく答えた。
だが、その一方で、考えざるを得なかった。
美子は何時、死ぬのか、それは分からぬことになる。
何故なら、美子は「皇軍資料」には出てこないだろうから。
でも、普通に考えれば、美子は長命する筈で、自分と何十年も連れ添える筈だ。
そこまで父の前で考えた後、私は父の下を辞去した。
そして、「皇軍資料」を自身で閲覧して、父の言葉がほぼ正しいのを確認した。
確かに病で死んだ人間は、この資料の通りに死んでいると言っても過言では無い。
ということは、父が私に告げた通り、自分は美子とほぼ確実に結婚できるのでは。
美子を中宮に迎えることに家格等の問題は絶無と言って良い。
何しろ養女とはいえ、摂家の一つである九条家の娘なのだ。
しかも自らの結婚の為にそうしたのならば、反対論が上がるだろうが、既になっているという事実は極めて大きい。
そして、その頃になれば、五摂家の内、近衛家と一条家の当主は自分の弟で、二条昭実も薨去しており、九条兼孝と鷹司信房では、自分が強く主張すれば、美子を中宮に迎えるのに反対を貫けぬだろう。
今上陛下は、そのように考えた。
ご感想等をお待ちしています。




