第76章―1 皇太子殿下の御成婚式と今上(後陽成天皇)陛下の譲位
新章の始まりになります。
さて、少なからず時が巻き戻る。
1611年3月初め、鷹司(上里)美子は、親友である九条(徳川)完子の頼みに困惑していた。
「お願い、美子ちゃん。妹の千江に様々な教育指導をしてほしいの」
「それは私もしてあげなくはないけど」
頭を下げての完子の言葉に、美子は口を濁さざるを得なかった。
美子にしてみれば、完子がここまで懸命になる理由が今一つ、分からない。
千江はどうのこうの言っても、(この世界では)徳川秀忠の次女で、両親の膝下で育ったのだ。
(史実の千姫は秀忠の長女になりますが、この世界では完子が秀忠の長女で、千江は次女になります)
だから、それなりどころではない、最高水準の教育指導を受けて育った筈だ。
それなのに何故に完子が、ここまでの態度を執るのか。
だから、美子は完子に事情を聴くことにした。
「何でそこまでの頼み事になるの。千江の頭は悪く無い筈よ。それに貴方が教育指導しても良いのでは」
実際にかなり前、具体的には美子が義姉の愛と北米旅行をした際だが、美子は千江と直に逢って話をしたことがあるのだ。
その際の受け答えや、完子のこれまでの言葉からして、千江は充分に平均以上の頭の持ち主の筈だ。
そして、完子が千江の教育指導をしても問題無い筈だ。
何しろ完子は京の学習院で学んで育ったのだ。
それこそ礼儀作法から音楽や和歌といった一般教養まで、完子は平均以上の成績を修めている。
だが、完子の続けての言葉に、美子は唸らざるを得なかった。
「それこそ宮中で裏から千江がイジメられない、と美子ちゃんは考えられる。宮中では足の引っ張り合いが起きるのが常よ。幾らローマ帝国の皇女という後ろ盾があっても、いえ、後ろ盾があるからこそ、裏からイジメが起きるわ。そうしたときに、貴方が千江を教えたという背景があれば」
「確かに」
美子は言うまでも無いが、前尚侍であり、五摂家の一つである九条家の養女にして、鷹司家の次期正妻になる身である以上、最上級の公家の女性と言える。
更に言えば、先年の猪熊事件の際、美子は剛腕を振るって宮中女官の綱紀粛正を果たしている。
姦通騒動を起こした女性全員は、未だに南米から本国への帰国が赦されず、尼僧として修業に励まされる状況にあり、男性全員は南極大陸から本国への帰国が未だに赦されていない。
その為に宮中というか、公家社会では、未だに美子は怖れられている。
千江が美子の教え子ということになれば、千江をイジメては美子が黙っていない、という噂が自然と立つことになるだろう。
そういった噂によって、完子は千江をイジメから護ろうと考えているのだ。
美子としては分かりたくないが、妹を想う姉の心中を慮れば、極めて断りづらい話だ。
「分かったわ。千江を教えてあげる」
美子は、表面上は快諾したが、本音では不承不承、言わざるを得なかった。
「ありがとう」
完子は素直に喜んで、自邸に帰って行った。
完子を見送った後、美子は頭を抱え込んだ。
完子の頼みだが、自分としては本当に断りたい。
裏の仕事をせねばならず、心労が溜まっているのだ。
とはいえ、裏の仕事は隠密裏に動かねばならず、完子に明かす訳には行かない。
その裏の仕事だが。
今上(後陽成天皇)陛下の譲位問題だった。
今上陛下が、皇室典範改正や皇太子の御成婚問題で、完全にへそを曲げてしまったのだ。
そして、今上陛下は、何かと譲位を口にされるようになった。
だが、皇室典範は生前譲位を想定しておらず、今上陛下の譲位を行うとなると、皇室典範を改正する必要がある。
しかし、皇室典範改正となると、それこそ(この世界では)憲法改正並みの大事になる。
だから、密行性が要求され、美子は裏の仕事でやる羽目になっていた。
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