第75章―17
さて、新たに日本人の女性宇宙飛行士として名乗りを上げた女性だが、誰かと言うと。
黒田栄子だった。
というか、実母の保科(久松)亀子の方が、(この世界のこの時点では)著名な存在になるだろう。
保科(久松)亀子だが、この時代の日本と北米植民地(後の北米共和国)の狭間に翻弄された女性の一人として、後世に名を遺しているのだ。
久松という旧姓から、ピンと来る人がそれなりにいると考えるが。
保科(久松)亀子は、徳川家康の実母の於大が久松俊勝と再婚して産んだ子どもの一人で、家康にしてみれば異父妹になる。
そして、1610年現在の北米共和国大統領である徳川秀忠にしてみれば、叔母になるのだ。
更に言えば、北米独立戦争等に翻弄された人生を、亀子は歩んでいた。
北米独立戦争が起きるまで、亀子は両親の下で幸せに育った後、(桜井)松平忠正と結婚するという人生を歩んでいた。
そして、このままカリフォルニアで幸せな家庭を築いて、人生を過ごして行ける、と亀子は考えていたのだが、北米独立戦争は亀子の夢を打ち砕いた。
北米独立戦争勃発に際して、松平忠正は日本本国側に立ち、亀子からすれば夫と異父兄は敵対することになったのだ。
更に忠正は北米独立戦争の中で戦死することになり、亀子は(この当時では良くあることだが)夫の弟の忠吉と再婚することになった。
だが、忠吉も結果的に北米独立戦争の中で戦傷を負い、最終的には後遺症で1582年に亡くなった。
こうしたことから、亀子は1584年に信濃出身で北米独立戦争勃発に伴い、カリフォルニア側に立って戦った保科正直との再々婚を行うことになった。
そして、栄子等の子を、正直との間に亀子は産むことになったのだ。
1585年に産まれた栄子は、すくすくと両親の下で育って、小中高と順調に進学していった。
そして、栄子が高校を卒業する頃に起きたのが、カリフォルニアを始めとする日系植民地の自治領化、日本が大日本連邦帝国に移行する動きだった。
この動きに影響を受けた栄子は、カリフォルニア自治領で軍隊を編制しようとする流れの中で、陸軍航空隊士官に自分はなりたい、と両親に対して訴えることになった。
保科正直とて、北米独立戦争の中で戦塵をかいくぐる等、一廉どころではない武人ではあるが、娘のこの訴えには困惑して、妻の亀子と共に娘の栄子の希望を懸命に押し止めようとしたのだが、結果的には失敗することになってしまった。
そして、栄子は自分の希望を押し通して、日本本国の陸軍士官学校に入学して、更には航空隊士官の路を歩んでいったのだが。
(註、この当時、日本の旧植民地である自治領には、陸軍士官学校が存在しなかった。
というか、海軍兵学校も自治領には存在していなかったのだ。
士官教育を行うとなると、それなりどころではない教育機関を設ける必要があり、それには資金や人材の確保が必要不可欠になる。
そうした資金等を節約するために、この当時の自治領軍の士官教育は、日本本国の陸軍士官学校や海軍兵学校に委託する事態が引き起こされていたのだ)
そうした路を歩む内に、栄子は自らの教官になった黒田長政に惚れこんで、黒田長政も栄子からの求愛に応えて、二人は結婚する事態が起きたのだ。
こうした事情から、保科栄子改め、黒田栄子は結果的にだが、日本(本国)陸軍航空隊士官としての路を歩んでいった。
更には操縦士として天性の才能を持っている、と周囲からも評価されて、自らも志願したのもあるが、女性ながら宇宙飛行士の路を、栄子は歩むことになったのだ。
(尚、流石にこのてん末には、長政は良い顔をしなかったとか。
妻には家庭のことを顧みて欲しい、というのが長政の希望だった)
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