第75章―11
だが、そんな数々の逸話に包まれたローマ帝国のエウドキヤ女帝だが、これまでの生涯において実父のイヴァン雷帝以外で唯一屈服させられなかった人がいるのは、世界中で知られた事実だった。
その人の名は、織田(三条)美子だった。
ローマ帝国復興戦争として世界で知られている、1585年に起きたエジプトがローマ帝国領となり、更にはバルカン半島を中心とするヨーロッパ大陸とパレスチナ地方等がローマ帝国領となった一方、オスマン帝国がスルタン=カリフ制を採用することで崩壊寸前の状況から、イスラム世界の大国として立ち直った戦争。
その戦争に日本が介入することで、オスマン帝国は崩壊せずに済み、ローマ帝国は復興を果たすことになる結果が、最終的に引き起こされたと言えるのだが。
その日本の介入を主導したといえるのが、織田(三条)美子だったのだ。
勿論、このローマ帝国復興戦争当時、ローマ帝国は復興を果たしたばかりであり、一方の日本は北米独立戦争によって、北米植民地の喪失から北米共和国の成立という大きな痛手を負ったものの、それでも世界唯一の超大国といえたことからすれば、日本の介入の前にローマ帝国が屈服せざるを得なかったのは、止むを得ない事態としか、言いようが無かっただろう。
更には、この時の織田(三条)美子は、1536年生まれで50歳手前の貫禄溢れる女傑であり、それに対するエウドキヤ女帝は、1560年生まれで20代半ばの若い女性とあっては、いわゆる貫禄負けとという事態が起きるのも当然だった。
だが、そうは言っても、エウドキヤ女帝を威圧したのが、織田(三条)美子なのは間違いない話で。
更には、この後のローマ帝国の勢力伸長の中で起きた東西教会の合同や、ウクライナからロシア、モスクワ周辺等からバルト海や北海にまでローマ帝国の領土を拡張した際に起きたことから、エウドキヤ女帝を威圧できたのは、織田(三条)美子だけだ、と世界で謳われる事態が起きていたのだ。
そういった背景からして、ローマ帝国のエウドキヤ女帝とも正面から交渉した末に、日本の皇太子殿下の御成婚をまとめ上げた鷹司(上里)美子について、様々な噓等が流れるのも仕方ない話だった。
鷹司(上里)美子の背景、家族関係は、別に秘密でも何でもない。
だから、それなりのところで調べれば、すぐに分かる話なのだが。
世界の多くの人が違和感を覚える家族関係だった。
鷹司(上里)美子の実母の広橋愛は、オスマン帝国のカリフに仕える女奴隷だったが、上里清に下賜されて、その愛妾になり、鷹司(上里)美子を産んだという。
更には、広橋愛は上里清の妻の理子の連れ子養女になり、清を義父にしたとか。
妻が夫の子どもを産んだ愛妾を養女に迎えるとは。
普通はアリエナイことではないか、裏では何かがある、と勘繰る面々が多数出るのも当然だった。
更に勘繰られる要因があった。
広橋愛の生年は1569年ということになっていて、これまでの経歴、外見もそれを肯定しているが。
丁度、その前後、具体的には1568年に織田(三条)美子は、エジプト独立戦争の収拾を付けるためにオスマン帝国に赴いているのだ。
1568年にオスマン帝国に織田(三条)美子が赴いた際に産んで、オスマン帝国に残していった子が広橋愛ではないか、という憶測が生まれるのも、ある意味では当然だった。
いや、そんなことは無い、と世界の多くの人が笑う話ではあるが。
そうは言っても、深読みする人程、織田(三条)美子と鷹司(上里)美子が、広橋愛を介して、実の祖母と孫娘ではないか、と考えてしまう関係なのは否定できない。
だからこそガリレオとケプラーは、真実味のある話と考えていたのだ。
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