第74章―14
「具体的に何か起こっているのですか」
磐子は、それとなく鷹司(上里)美子に言葉を促した。
「天皇の忍び」の一人として、磐子は今上陛下は政治に関わらないのが正しい、と自らは考えており、頭領もそのように考えて、磐子に指示を出している。
だが、政治に関わらないなら関わらないで、それとなく政治を注視しないといけないのも現実だった。
「保守党内のゴタゴタが、貴族院にまで波及しつつあるようよ。本当に面倒」
「何故にそんな事態が」
「保守党の衆議院議員の多くが、それなり以上に貴族院議員と縁がある以上、当然でしょう」
「ああ、確かに」
美子と磐子は、お互いに事情を熟知した面々として、それだけで分かり合ってしまった。
さて、何故にこんな事態が起きるのか、と言えば、既述だが1574年にまで事情は遡る。
1574年にこの世界の日本で初の国会議員選挙、衆議院と貴族院の選挙が行われた。
その結果として、織田信長率いる労農党が、第一党を衆議院で占めることになった一方、貴族院では近衛前久の支持者が最大勢力になった。
こういった状況から、衆議院と貴族院が対峙する事態が起きかねなかったが、当時の今上陛下、正親町天皇陛下の介入によって、織田内閣が最終的には成立したのだ。
それ以来、衆議院を制する者が、首相になるという慣例ができたが。
その一方で、貴族院も国会である以上、完全に軽視される訳が無かった。
更に言えば、労農党は暗黙裡に様々に貴族院内に勢力を扶植していた。
例えば、織田信長の妻の織田(三条)美子は、れっきとした貴族院の終身議員で、清華家の三条家の当主代行を務めていた。
更に織田(三条)美子の義弟に九条兼孝はなり、二条昭実の妻は織田信長夫妻の娘だった。
鷹司信房にしても、紆余曲折があったとはいえ、九条兼孝の養女の輝子を妻に迎えている。
こんな感じで五摂家の内三家を労農党が最終的に抑えて、他にも上級公家と縁を結んでは。
労農党に対抗するために、近衛前久の後援によって結党された保守党も、貴族院内に様々な方法で勢力扶植を試みざるを得なかった。
更に言えば、保守党には、それなり以上に貴族院議員と縁のある面々が多かった。
何しろ、保守党議員の多くが、島津家や北条家、上杉家等々、地元では名門であり、公家とは様々に縁のある面々が揃っていたのだ。
例えば、島津家は近衛家の保有する島津荘の下司を鎌倉時代から務めて来たという縁から、島津家と近衛家は深い縁があり、自称だが源頼朝の御落胤の後裔だった。
北条家にしても、足利幕府で政所を握っていたといえる伊勢家の流れを汲む家であり、伊勢家は諸説あるが、少なくとも自称としては桓武平氏の後裔である。
上杉家に至っては、藤原北家の分家の一つである勧修寺流の分家になる。
尼子家にしても、宇多源氏の流れを汲む名家になるのだ。
更に余談に近い話をすれば、中国保守党の毛利家は大江氏の流れを汲み、小早川家は桓武平氏の末裔、吉川家は藤原南家の末裔になる。
ある意味では遠すぎる繋がりとしか言いようが無いが。
そうは言っても、労農党が貴族院でも、それなりに幅を利かせていては、保守党も貴族院議員に対して、そういった遠いと言えば遠い繋がりまで持ち出して、それなり以上の政治工作を行わざるを得ない。
そして、貴族院にもそれなりに力があることもあって、それは未だに続いている。
そうしたことから、保守党でゴタゴタが起きれば、貴族院内部にまでさざ波が引き起こされるのは、どうにも避けられないことだった。
そして、それを細かく見て行けば、保守党内でのゴタゴタについても、それなりどころではなく推測が付くのは、ある意味では当然としか言いようが無かった。
ご感想等をお待ちしています。




