第74章―11
ともかく、そんな裏事情まであった末に、1610年秋に特別国会は召集されて、保守党と中国保守党を支持基盤とする尼子勝久内閣は成立、続投する事態になったのだが。
尼子首相は、早速、伊達政宗を始めとする労農党の裏行動に頭を痛めることになった。
「「保守合同」は、すぐには無理か」
「中国保守党内で、急速に「保守合同」に反対の声が高まっています。毛利輝元らが、反対の声を挙げており、更に古参党員の多くまでもが、輝元らに賛同の声を挙げています」
尼子首相の問いかけに、吉川広家は渋い顔をしながら、言わざるを得なかった。
「毛利輝元が、自発的に音頭を取っているのか。反党活動との小理屈で黙らせることはできないか」
「いや、自発的な面はあるでしょうが、毛利輝元の背後に、伊達政宗ら、労農党の影がちらつきます。恐らく輝元は、政宗らに煽られて、「保守合同」に反対の声を挙げ出したのでしょう。更に言えば、「保守合同」は中国保守党を解党、潰すモノと言われても仕方のないことです。だから、反党活動だ、と私が輝元の行動を潰そうとすれば、党首は中国保守党を潰そうとしているという声が挙がり、党大会で私を党首から追放するという動議が出て、党首から私が完全に追放される危険さえもあります」
尼子首相の更なる問いかけに、広家は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら答えた。
広家は、改めて考え込まざるを得なかった。
自分と伊達政宗は、微妙に反りが合わない間柄である。
この辺りについては、何故に、と他人に聞かれても、自分も細かく他人には説明できないし、政宗も自分と同様の筈だ。
お互いに熟達の政治家でアリ、それなりどころではない一流の政治家、とお互いに認めあってはいる。
だが、だからといって、手を組めるのか、というと、それは全く別の話になる。
そして、お互いの政治的背景、信条等までも考えていくと。
政宗は、良くも悪くも生粋の左派政治家と言って良い。
そもそも論になるが、全労連の組合員として奮闘した後、労農党に入党して、労農党所属の衆議院議員として当選を重ねて来た。
更に言えば、労農党の初代党首の織田信長の義理の甥でもあり、木下小一郎首相が、将来の労農党党首として政宗に目を掛けていたのは公知の事実と言って良く、二条昭実が木下首相の急死後に首相に成ったのも、二条昭実が政宗の義理の従兄(二条昭実は織田信長の娘婿になる)という縁からというのは、有名な話だ。
それに対して、自分は右派、保守政治家と自らを律している。
だから、様々な縁から中国保守党所属の衆議院議員になってはいるが、「保守合同」を何れは果たすべきであると自分は考えて来た。
そして、それを周囲に対して、陰に陽に訴えてきたことから、最後には政界を引退する直前の小早川道平前党首からも、
「そこまで言うのならば、中国保守党が保守党と合同して「保守合同」を果たすことに、引退した後で儂は表立っては反対しないでおく」
とまで言わせることが出来たのだ。
だから、お互いの政治的背景等を考えて行けば、止むを得ないことかもしれないが。
そうは言っても、それなりの政治的妥協が全くできない関係なのか、というとそんなことは無い筈だ。
かつて、中国保守党は労農党と連立を組んでいたのだ。
又、保守党内でも是々非々で、労農党を手を組むのはやぶさかではない議員がそれなり以上にいる。
例えば、先年の日本の植民地が自治領になる法案、日本が連邦国家に移行した法案の可決成立に際しては、労農党が準与党である二条内閣の法案なのに、保守党内部の議員からも賛成投票が為された程だ。
だが、それでも自分は政宗とは手を組めない。
広家はそう考えていた。
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