第74章―1 1610年の衆議院議員選挙と新幹線建設等
第74章の始まりです。
色々と描写が飛ぶ事態が起きそうですが、基本は1610年現在の日本の状況描写に第74章はなります。
1610年7月初め、広橋愛は伊達政宗らと共に陸前県を訪れており、地元の事務所に赴いていた。
「お久しぶりです」
「こちらこそ」
地元の事務所で待っていた国分盛重に対して、広橋愛は先に頭を下げながら挨拶をして、国分盛重は鷹揚に答えた。
国分盛重は伊達政宗からすれば叔父になる。
兄の伊達輝宗と共に南米に赴いても良かったのだが、父の伊達晴宗が膝下で育てたがったし、それにまだ小学生だったという事情から、盛重は日本に残ったのだ。
そして、後継ぎがいなかった元国人衆になる国分家に、盛重は養子として迎えられた。
その後は、この当時の日本ではよくあった話だが、国分盛重は、地元の名家の当主として郡役所のエリートになって出世し、更に郡議会ができたら郡議に、更に県議会に転身して県議へと転身したのだ。
現在は国分盛重は地元の名家の当主として、一人県民党を標榜する無所属の県議会議員ではあるが、実際には、伊達政宗の国家老といってよい立場にあり、周囲も労農党の事実上の党員と見ている。
(そこまでになれば、国分盛重が労農党に正式に入っても良いだろう、と思われそうだが、それこそ地元の名家同士のしがらみがあり、国分盛重は労農党に正式に入るのは謝絶している。
そして、この件で伊達政宗と国分盛重は微妙に疎隔してもいたが、片倉景綱らが間に入ったことから、お互いに大人の関係として、表向きは今では割り切っていた)
「叔父貴、元気にしていたか」
「おう、お前の葬式に参列するまで生き抜くつもりだ。元気でおらんといかぬわ」
「叔父上の減らず口も相変わらずだ」
広橋愛と国分盛重のやり取りが終わったと見て取った政宗が、盛重に更に声を掛け、やり取りをする。
それを見た政宗の妻の伊達愛子が口を挟んだ。
「叔父甥のやり取りは、それ位で良いでしょう。そうしないと他の者が話しかけられませんよ」
「そうですよ」
阿吽の呼吸で、広橋愛が更に言葉を掛ける。
それを聞いた叔父甥はお互いに苦笑いしながら言った。
「お前の妻と秘書と二人に言われては、これ位にするか」
「そうですな」
それを機に事務所で待っていた他の後援会の面々も、政宗や広橋愛に声を掛けて、又、政宗や広橋愛はそれに答えることになった。
それが一段落した後、政宗はこの場にいる面々に対して改めて言った。
「此度の戦ではなかった衆議院議員選挙だが、これまでと違い、選挙期間中に自分は選挙区に半分もおれぬ。妻の愛子を代わりに盛り立ててくれ。尚、広橋愛を完全に張りつけて、いざという際の自分との政治上の連絡役を務めてもらう」
「分かっていたこととはいえ、色々とつらいな」
実の叔父ということもあって、国分盛重は忌憚のない意見を言い、その場にいる面々も苦渋の表情を浮かべざるを得なかった。
広橋愛としても、この場の雰囲気は微妙につらかった。
本来から言えば、広橋愛が第二秘書になり、又、片倉景綱が糖尿病にり患したときに、広橋愛がいざというときのために、陸前県との地元との折衝を一部でも、景綱から引き受けるべきだったのだ。
だが、広橋愛は名前こそ日本人だが、血筋から言えば生粋のアラブ系であり、清楚な美女ではあるが、この東北の陸前県では地黒な肌も相まって、微妙に浮いてしまう。
(更に言えば、広橋愛は1569年生まれで40歳を過ぎているが、十二分に男を魅了する魅力を未だに誇っていた。
その為に陸前県で下手に政宗と同行していては、政宗の愛人と見られかねない、と政宗も広橋愛も懸念していて、それもあって広橋愛は陸前県にほとんど足を踏み入れていなかったのだ。
これはこれで、かつては正しい判断ではあったが、今になって政宗も広橋愛も悔やむ事態になっていた)
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