第73章―10
尚、日本で起きた事態について、この際に重複して更に前後して述べることにするが。
何だかんだ言っても、皇太子の政宮殿下の妃になったのは、北米共和国人とはいえ、生粋の日本人と言える徳川千江(更に言えば、その祖母のお市の兄は初代の大日本帝国首相である織田信長)である。
だから、外国人の血が皇室に混じるのはどうか、という声に対して、そうは言っても、徳川千江は純粋な日本人といえる存在だ、更に祖父、父と二代に亘って北米共和国大統領を務めているし、大伯父は大日本帝国首相で、その妻(織田(三条)美子)は清華家の三条家ではないか。
更にローマ帝国の皇女として嫁がれるのに、何処が問題がある、という声が挙がっては。
(実際に血縁だけから言えば、徳川千江は生粋の日本人といえる存在だった。
何しろ祖父母は徳川家康と西郷氏、浅井長政と織田お市になるのだ。
更にその上を辿っていっても日本人になるのは間違いない。
それこそ実母がアーイシャ・アンマール(広橋愛)になる鷹司(上里)美子の方が、日本人で無いとして叩かれても当然の存在だった)
このために徳川千江が、皇太子の政宮殿下の妃になることに、多くの日本人が歓迎の声を挙げることに最終的にはなったのだ。
だが、繰り返すが、後金国のヌルハチの娘は、言うまでも無く女真人である。
だから、女真人を差別していた多くの朝鮮人にしてみれば、朝鮮国王の妃が女真人になることに感情的に反発の声を挙げることになった。
更に言えば、講和交渉の際に、朝鮮使節団の多くが、この後金と朝鮮の結婚については、難色を示すことにもなった。
それに対して、高麗王朝において、高麗国王の多くが、モンゴル(元)の皇帝の娘婿であった史実を持ち出して、後金は朝鮮国王を娘婿にしようとした。
この主張に対して、朝鮮と高麗は別王朝である、として朝鮮使節団は懸命に抗ったが。
後金と朝鮮の間で新たに麗しい父子関係を築くためだ、モンゴルと高麗は父子関係を結んでいたのと同じことだ、と後金使節団に主張されては、朝鮮使節団が抗弁するにも限度があった。
更に言えば、後金にしても、それなり以上の小理屈から、朝鮮国王との縁戚関係を求めていた。
朝鮮は朱子学を国学として定めていた。
だから、朱子学を引き続き国学とせよ、という講和条件には反対しづらい。
更に言えば、(繰り返しの描写になるが)朱子学からいえば、不忠不孝は赦されない行為だ。
子どもである朝鮮国王が、父である後金国王に対して刃を向ける、戦争を起こすというのは悪逆無道として、国民全体から叩かれて当然で、国王から廃位されて当然の行為になる。
この時に後金との間で、講和交渉に当たった朝鮮の使節団の一人が、死後に身内のみが読むことを認めるとして書き残した書簡において。
「このとき程、朱子学を唾棄すべき代物、と考えたことは無かった。
後金からは朱子学を国学として朝鮮国内で教育を徹底するように、という指示が為された。
これまで我が国(朝鮮)は朱子学を国学としており、それを受け入れない、国学にはしない、と等、自分を始め多くの使節が言える訳が無かった。
そんなことを言っては、国学を否定するのか、と周囲から袋叩きにされた末に、自分や一族が族滅されても文句は言えないからだ。
だから、後金の要求を受け入れるしか無かった。
だが、そんなことをしては、後金に対して戦争を起こすことは、不忠不孝の極みということになり、非国民の行動ということになる。
愛国者が非国民だと叩かれる教育をせよ、と言われてそれに従うしかない現実だった。
腸が煮えくり返る事態だった」
そう書き残したのも、当然の後金と朝鮮の講和条件の背景としてあったのだ。
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