第73章―6
さて、後金国が建国されて、満洲を中心とする領土がほぼ確定した後、後金国は懸命に国内の産業振興と軍事力強化に傾注せざるを得なかった。
幸いなことに、北満州で大規模油田(史実で言うところの大慶油田)が発見され、又、日本から様々な技術等の支援が行われたことから、後金国の財政負担は、相対的なモノに過ぎなかったが、それこそ国力を大きく傾けることなく、産業振興と軍事力強化を後金国は両立させることが出来た。
だが、このことは必然的に周辺諸国政府の嫉視等を招かざるを得なかった。
特に深刻だったのが、朝鮮との関係だった。
後金国の住民の多数を占める女真族を、朝鮮政府や朝鮮族は伝統的に蔑視していた。
更に言えば、後金国が日本の忠実な同盟国であることも、朝鮮にとっては腹立たしい事態だった。
それこそ「皇軍来訪」以来、60年以上も日本と朝鮮の間では国交断絶どころか、交戦状態が続いていると言っても過言では無かったのだ。
勿論、この間に日本と朝鮮の間で講和の機運が全く起きなかった訳ではない。
だが、日本が表向きは対等な、実際には日本側が優越する外交関係を締結して、更に自由交易を望んだのに対して、朝鮮政府は対等な外交関係ならば、まだ呑めなくも無いが、自由交易は断固拒否したため、講和は結ばれていなかったのだ。
そうした流れを背景にして、日本の支援によって、結果的に女真族の後金国が建国された。
更に後金国は、朝鮮国内の女真族蔑視、差別問題を看過できない、と朝鮮に抗議してきた。
だが、このことはますます朝鮮国内の主に国粋派に、更に女真族差別を激しくさせる事態を引き起こして、ヌルハチ率いる後金国政府の怒りを高める事態となっていたのだ。
とはいえ、日本政府の政治、軍事等の様々な支援を咀嚼するのに、後金国政府はそれなりに時間が掛からざるを得ず、すぐには朝鮮に対する直接行動、特に軍事行動を起こすどころでは無かった。
これまで槍や弓で主に武装していた兵に、ボルトアクション式小銃を装備させ、更には戦車や自走砲を運用できるだけの様々な知識を与えて、実際に運用させること一つとっても、数年がかりの教育を始めとする様々な施策が必要不可欠なのは、当然のことだった。
しかし、このことは朝鮮政府に、後金国は軍事行動を起こす気はない、との楽観的な見解を広めることになった。
結局は後金国は口だけでやる気は無い、実際に我が国に戦争を仕掛けてこないではないか、との主張が声高に為されては、それこそ臆病者と言われない為に、そういった主張に迎合する者が、朝鮮政府内に多数出ることになったからだ。
そして、こういった者が増えるにつれて、朝鮮国内の女真族差別、というよりも迫害が酷くなるのは当然の流れだった。
このことは、更に後金国政府、及び国民の憤りを高めることになった。
その果てが、1607年の後金国の朝鮮国への侵攻作戦発動だった。
戦車を先頭に立てて、後金国陸軍約6万人が鴨緑江を越えて、朝鮮国内への侵攻作戦を発動することになったのだ。
尚、その目標は言うまでも無く、朝鮮国の首都の京城で、朝鮮国に城下の盟、要するに降伏を求めての侵攻作戦だった。
これに対して、朝鮮軍も応戦したが、朝鮮軍の第一線の装備が中国、明国製の旧式銃であっては、どうにもならない装備格差があった。
それで、戦車や装甲車を装備した機甲部隊と正面から戦うことを強いられては、それこそ10倍の軍勢を朝鮮軍がぶつけても、後金軍に勝てる訳が無かった。
だが、朝鮮政府は、それでも勝算アリと考えていた。
江華島に逃げ込んで抗戦した高麗の故智に倣うことで、後金軍に対し朝鮮は勝利を収められると楽観的に考えていたのだ。
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