第73章―1 ローマ帝国の更なる東進とそれに対する日本等の対応
新章の始まりで、ローマ帝国のシベリア方面への侵出と、それに対する後金(満洲)国を中心とする日本等の対応を描く章になります。
その一方で、後方の安全確保等の為に後金(満洲)国を中心に戦乱が東アジアで起こることにもなります。
少なからず場面が変わる。
1610年のこの当時、ローマ帝国のシベリア開発は徐々に進捗していた。
勿論、シベリアの大地の多くが永久凍土に覆われている以上、そう容易に開発が成るものではない。
(この世界の歴史的事情も相まって)ローマ帝国のシベリア開発は北極海沿岸沿いに、更に北極海に流れ込んでいるレナ河やエニセイ河等の河口部から上流部へと遡るような形での探査行がまずは行われた上で、その探査結果に基づいて実際の開発が行われる事態が多発していた。
この辺りについては、それこそウラル山脈を直に越える等して、陸路での探査隊を派遣して、その結果を踏まえてシベリア開発を行うのが至当、という意見がローマ帝国内でも、それなりにあったが。
実際問題として、この世界では史実と異なり、既に様々な科学技術がそれこそ20世紀後半レベルに達しており、例えば、砕氷船が実用化されている。
こうしたことからすれば、探査行を実施するのに、大量の人員や物資を運ぶ必要性があることを考えれば、砕氷船を駆使して北極海沿岸の探査を行い、更に北極海に流れ込む大河を遡る形で探査を更に進めるのが、合理的としか言いようが無かった。
そして、この探査行のローマ帝国の最大の前進拠点とされたのが、アルハンゲリスクではあったが。
この港自体は不凍港といえるが、それに面している白海から北極海の現実からすれば、一年の半分しか探査行のために使用できないという現実があった。
このために少しでもアルハンゲリスクを始めとする北方に大量の物資等を運び込もう、とローマ帝国政府上層部は逸る事態を引き起こすことになった。
こうしたことが、ムルマンスクやペトログラード(この世界における名前、史実で言えばサンクトペテルブルク)といった北の港町の建設を推進させて、又、モスクワとペトログラードを結ぶ大運河の建設をローマ帝国に行わせることになったのだ。
これについて、1610年時点における現状を、順次述べるならば、まずシベリアの大きな地図は徐々に完成しつつあった。
皮肉を言えば後述するが、人工衛星が実用化されたのも極めて大きなモノがあった。
人工衛星が現実に使用されるようになったことから、それこそ人工衛星の一種である偵察衛星を使って、地上の写真を撮影することが可能になったのだ。
勿論、航空機を使うことで地上の写真撮影を行うことは、とうに実用化されていたが、そうは言っても極寒の地といえるシベリアの大地で、航空機を運用するのは、この時点でも極めて困難だった。
そうしたことから、偵察衛星を使った地上の写真撮影というのは、解像度がまだまだ極めて粗いものではあったが、シベリアの大地においては極めて重宝されるものになっていた。
又、電波技術の進捗も極めて大きなモノがあった。
かつては天測及び地文によって、現在位置を確認するしか無かったと言っても良かったが。
(とはいえ、それが完璧に出来れば探検を行うのに、大きな支障は余り無いのも現実だが)
史実世界で言えば、ロランシステムが徐々にこの世界でも普及するようになり、電波を受信する方法によって位置を確認することが可能な範囲が徐々に広がっていた。
(この世界で呼ばれるのはおかしいのですが、描写の都合から以下、「ロランシステム」と呼称します)
シベリアの大地探査は、こういった方法で史実に比べれば容易になる事態が起きた。
偵察衛星による写真撮影やロランシステムは、探査隊の危険度を大きく下げた。
勿論、だからといって、探査隊が事故等に遭う確率をゼロにすることはできないが。
少なくとも史実のシベリア探査よりも、遥かに事故等に遭う確率が低下したのは間違いなかった。
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