第72章―25
そんなやり取りがあった後、柳生利厳は島左近の下を訪ねることになった。
ある意味では偶々に近かったが、島左近はある程度はウクライナ方面の現況が落ち着いていることもあって、コンスタンティノープル近くの自宅で休暇を取っていたのだ。
そういったことから、
「初めてお目にかかります」
「日本本国におられる柳生利厳殿が、この地に直に来られるとは」
そんな感じで、柳生利厳と島左近は初めて対面することになった。
更に言えば、二人が話す内に徐々に肝胆相照らす仲になった結果。
数年後のことになるが、島左近の娘の珠子と柳生利厳は結婚する事態までが起きることになった。
閑話休題。
そんなことが傍であった一方、鷹司(上里)美子は、義理の伯父である上里勝利や帝国大宰相である藤堂高虎らの協力もあって、オスマン帝国のカリフを訪ねる約束を取り付けることに成功していた。
(尚、余談ながら。
こういったやり取りは、既述だが、この婚姻がエウドキヤ女帝の癇癪大爆発の一因になっていたことも相まって、藤堂高虎にしてみれば、死んだ方がマシのやり取りをする羽目になった、と公然と周囲に言って回る事態を引き起こした。
最も実際には、藤堂高虎は胃薬が欠かせない人生を送る羽目になったとはいえど、帝国大宰相を勤め上げることになったことからすれば、流石に言い過ぎ、としか言いようが無い話でもあった)
そして、美子はオスマン帝国の首都のアンカラに赴いて、秘密裏にカリフと謁見することになり、結果的には膝詰めで詳細を詰めることになった、と言っても過言では無かった。
「改めて言上いたします。日本本国政府は、オスマン帝国政府との友好関係を破棄するつもりは皆無です。この一件、日本の皇太子殿下と北米共和国の徳川千江の縁談は、あくまでも日本の皇太子殿下に相応しい妃殿下を迎え入れる為のものなのです」
そう美子は、カリフに懸命に訴えることになった。
「確かに私の下に届く情報も、それを肯定しています。又、日本の政治体制も仰る通りとしか、申し上げようがありませんな」
この1610年当時、カリフを務めていたアフメト1世は、それこそ美子と同年代(アフメト1世は1590年4月生まれであり、美子は1591年の生まれである)ことも相まって、美子の懸命の訴えに味方する態度を示してくれた。
「それでは、私の真率の考えを全て認めて頂けますか」
「認めぬ、と私は申しませぬ。ですが、この一件は本当に難題ですぞ。それこそ日本がローマ帝国と公然と手を組んで、我がオスマン帝国に対する同盟を破棄する行動に見られるやも」
「確かに否定できませんね」
アフメト1世と美子は、そんなやり取りをせざるを得なかった。
だが、この状態を何時までも続ける訳には行かない。
美子は改めて提言した。
「尚侍の私が言ってはならないことですが。私から改めてオスマン帝国に対して様々な軍事協力を、日本政府に対して求めましょう」
「良いのですか」
アフメト1世は驚いて言った。
「但し、私は尚侍です。政府の行動に対して、提言はできますが、実効力は皆無です」
「ふむ。そういうことですか」
「ええ」
美子とアフメト1世は、分かる者にしか分からないやり取りを更にした。
美子もアフメト1世も、日本の政治体制を熟知し合っている。
日本では宮中と政府は峻別されている。
だから、日本の宮中に勤める美子が日本政府に働きかけても、日本政府は平然と無視できるのだ。
それ故に美子がオスマン帝国に対する軍事協力を日本政府に求めても、無意味な話なのだ。
だが、日本の宮中と政府の関係を、オスマン帝国政府の最上層部の一部は、理解していない現実がある。
だから、こういった事態が起きるのだ。
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