プロローグ―5
実際、鷹司(上里)美子に対する養父母の上里清夫妻や義姉の広橋愛の懸念は、結果的にだが当たることになった。
鷹司(上里)美子に対して、猪熊教利が懸想した(要するに恋文を送った)のをきっかけとして。
宮中女官及びそれに関わる男性陣の乱脈ぶりが、1609年に露わになったのだ。
(尚、教利に言わせれば、
「あれ程の美女(美子のこと)に惚れこまないのは男ではない」
と放言したのだが。
美子に言わせれば、
「男ならば、どんな美女が裸で迫っても自制するのが当然です。自制心が無いのを自白しています」
とやり返す事態が起きた)
ともかく、教利は尚侍の美子に懸想して、それが宮中風紀を乱すモノとして断罪される事態が起きたのだが、死なば諸共ではないが、教利が自分が知っている宮中女官及びそれにかかわる男性陣の乱脈ぶりを証言というか、公言したことから、話がややこしくなった。
何しろその中には、美子の親戚、身内になる飛鳥井雅胤他や広橋局、中院局までがいたのだ。
(教利にしてみれば、美子の身内も同じ穴の狢だ、と言いたいことから証言する事態になった)
これに対して美子は容赦のない態度を尚侍として執ることになり、今上(後陽成天皇)陛下もそれを支持したことから。
教利は、
「南極大陸で完全に頭を冷やしてこい」
ということになり、単独無補給で南極点に徒歩で8月にたどり着くまで、南極大陸から出られないという処分になった。
(これを聞いた教利は、
「私に死ねまで南極にいろ、というのか」
と絶望した末に南極大陸に赴くことになった)
他に教利に告発された男性陣も、
「暫く頭を冷やせ」
と南極大陸に赴かされて、それこそ頭を冷やす事態になった。
又、女性陣も、
「地球の裏側で仏道修行に励んで、悟りを開いてこい」
と言われて禅宗の寺で尼僧になり、南米大陸で仏道修行に励むことになった。
尚侍として、美子はそんな処分を下すことに、1609年になったのだが。
その一方で、政府とのやり取りについても、義父の鷹司信房内大臣のサポートを、美子は4年近くに亘って行うことになっていた。
宮中と政府は別、ということに公式には成っているが、日本は公的には天皇主権の国家である以上、今上陛下は政府と関わらない訳には行かず、内大臣は宮中の長として支えざるを得ないからだ。
美子にしてみれば、衆議院議員選挙の有権者になる年齢でもないのに、と溜息を吐くしか無かった。
(尚、美子は衆議院議員選挙の有権者資格が無い。
何しろ15歳で従三位に叙せられており、25歳になれば自動的に貴族院議員になれるのだ。
そして、夫の鷹司信尚は25歳未満なのもあって無位であり、美子の方が高位になっていた)
そんなこんなの中に有りながら、美子は3人目の子になる松一を無事に出産しており、近い将来に松一を上里清の養子にすることになっていた。
(尚、上里家の後継者を美子と争っていた飛鳥井雅子も久我(上里)聖子も、この件については黙らざるを得なかった。
雅子は上記の件で息子の雅胤が南極送りになっており、聖子は男児を一人しか産んでいなかったからだ)
だが、その一方で、美子の悩みは深まる事態が起きていた。
「幾ら何でも皇太子殿下を南極送りにはできない」
美子は、そう内心で嘆いていた。
時の皇太子殿下、政宮は美子より5歳年下の14歳なのだが。
美子を女と見て惚れこむ事態が起きたのだ。
美子は厳しく拒絶したのだが、皇太子殿下は美子を皇太子妃として迎えたい、と考えているらしい。
美子にしてみれば、子持ちの人妻に惚れるな、と皇太子殿下を叱りつけたい事態である。
「本当に何とかしないと」
美子は尚侍の職務もあり、皇太子殿下の縁談の為に奔走することになった。
少なからず分かりにくい描写になったので、ここで補足します。
鷹司(上里)美子は、私が裸で抱き着いても、自制するのが男ならば当然、と考えており、それこそ際どい衣装で歩いて、目配せしただけで、無言の同意があったとか、言い訳にも程がある、と考えています。
しかし、猪熊教利等にしてみれば、男を挑発するような格好で美子が歩いておいて、挑発された男が全面的に悪いとか、ふざけるにも程がある、という理屈で激怒した次第です。
この辺りは、それこそ立場による違いということで、平にご寛恕を願います。
とはいえ、美子にもブーメランのような事態が起きていて、次章で苦悩することに。
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