エピローグ―3
さて、鷹司(上里)美子の男児出産は、それこそ美子の実家である上里家の閨閥や美子の結婚の経緯(最初は鷹司信尚の愛妾の筈だったが、北米共和国やローマ帝国が美子の結婚に口を挟んだことから、美子は信尚の正室になった)から、北米共和国やローマ帝国といった日本本国以外からも、それなり以上の祝いの品々が寄せられる事態となった。
まずは北米共和国から述べると。
「武田信光大統領からも、更に徳川秀忠殿からも祝いが送られてくるとは」
美子は嬉しくは想ったが、祝いの品々が送られてくる事態に驚かざるを得なかった。
武田信光にしてみれば、美子は従妹になるし、更に日本の五摂家の一つである鷹司家の跡取りを美子が産んだ以上、親戚、身内になる以上は祝いを送って当然という論理なのだろうが。
それに対抗するように、娘の親友が出産したと聞いたので祝いを送ります、といって実際に送ってきた徳川秀忠の行動には流石に美子も驚かざるを得ない。
更に言えば、これを何処で聞きつけたのか、自分の義理の伯母の織田(上里)美子が様々な縁がある以上は自身でお祝いを持参しないといけない、と言って祝いを持参して自分を訪ねてきた際に、
「これはお互いに張り合っているわね。恐らく来年(1606年)の大統領選挙も絡んでいるわよ」
と密やかに自分にささやいたのが、どうにも本当に思えてくる。
自分の親友の九条(徳川)完子に言わせれば、自分の実の親(秀忠)にそんなつもりはなく、純粋に娘の親友が子どもを産んだのを祝ってのこととのことだが。
義理の伯母の言葉から改めて考えてみると、どうにも自分にも怪しく思えてくるのも事実だ。
勿論、邪推にも程があると武田家にも徳川家にも言われるだろうが、お互いに身内に義理事はきちんとする人物だという評判を立てたい、そうすれば、選挙の際に支持者も熱心に支援してくれるだろう、という思惑が陰である気がして、自分にはならない。
それに、私が嫁いだ鷹司家は五摂家の一つではあるが、断絶していたのが再興されたばかりという事情等から、日本の国内政治に積極的に他の摂家のように関与していない。
だから、日本の国内外から単なる名家のように見られがちで、そういった点でも程よく政治から離れた存在として、武田、徳川の両家から自分達に贈り物が為されたのではないか。
美子は内心でそう勘繰らざるを得なかったが。
そうは言っても、武田、徳川の両家からの贈り物を返せる訳が無く、夫や義理の両親と相談した上で贈り物をそつなく受け取って、お祝い返しを美子はするしかなかった。
尚、夫も義理の両親もそういった政治的な裏の思惑に疎いので、素直に武田、徳川両家からの贈り物を喜ぶ有様で、美子にしてみれば、もう少し裏の政治的思惑というのを考えてよ、と自分が15歳の身の上にも関わらず、頭を抱え込まざるを得なかった。
だが、この辺りは美子の生まれ育ちから来る代物としか、言いようが無かった。
(というか、周囲からの出産祝いを政治的思惑があるのでは、と勘繰る美子の方が異常と言える)
そもそも論になるが、美子は言うまでもなく上里清の正妻の理子の子ではない。
極論すれば、美子は清の奴隷のアーイシャ・アンマール(広橋愛)が産んだ娘で、奴隷の子は奴隷の論理からすれば、美子は奴隷呼ばわりされても当然の身だった。
だが、諸般の事情から美子は清の正妻の理子の養女になり、更に諸外国からは大公家と見られる摂家の正室にまでなったのだ。
だからこそ、美子は政治的機微に敏感にならざるを得ず、常に気を配らねばならなかった。
更に実母の広橋愛も、今では奴隷から日本の閣僚の伊達政宗の秘書を務める身だ。
それが美子を鍛えていた。
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