第70章―17
少なからず先走った話になるが、そういった状況にローマ帝国とクリミア・ハン国の戦争はなったことから、1605年末にクリミア・ハン国の領土としてクリミア半島全土をほぼ認めるという条件で、オスマン帝国が仲介に入って、ローマ帝国とクリミア・ハン国の休戦条約は締結されることになった。
(それ以外のクリミア・ハン国の領土は、ローマ帝国領とすることが暗黙裡に認められた。
これは流石にそれを明言した休戦条約にしては、オスマン帝国としてもカリフという立場にある以上は色々とイスラム教スンニ派信徒の間でマズイ立場になる以上、止むを得ないと言えた。
尚、この休戦条約締結について、内心では不満を抱いたローマ帝国政府は、日本を始めとする太平洋条約機構諸国の国内世論に対して、この休戦が破られた場合、太平洋条約機構諸国はクリミア・ハン国救援の為に戦わねばならなくなるとの世論工作を行った。
実際、この世論工作はそれなりに成果を挙げ、特に日本では太平洋条約機構にオスマン帝国が加入したままでは、クリミア半島に派兵せざるを得なくなるのではないか、との世論が高まることになり、1606年の衆議院議員選挙において、政権交代が起きる一因となることになった)
さて、羽柴秀頼が女帝エウドキヤに上奏するために待機している本来の場面に戻ると。
その後も様々な上奏、報告が女帝エウドキヤに対して行われることになった。
それに対して、羽柴秀頼はそれなりに耳を澄ませ、モノによっては却って耳を塞ぐことになった。
そうした中で、もっとも羽柴秀頼なりに聞き耳を立て考えたのが、ローマ帝国内の農地改革だった。
それこそ現在進行形でローマ帝国内の農地改革は進んでいる真っ最中だった。
特にそれが著しかったのが、ウクライナや旧モスクワ大公国領内だった。
この二つは共に大地主によって農奴を大量に活用した商業的農業が活発に行われていた土地だった。
そして、その大地主は貴族が占めていたといっても過言では無かった。
だが、ローマ帝国とポーランド=リトアニア共和国との戦争や、ローマ帝国とモスクワ大公国との戦争によって、ほとんどの貴族が財産を没収される事態が起き、結果的に大地主の持っていた農地はほぼ全てが国有化されたと言ってもあながち間違いではない事態となったのだ。
そして、国有化された農地について、ローマ帝国政府としては元農奴だった面々に主に払い下げて、自営農民を大量に育成して、色々な意味でそれによって大量に誕生する自営農民を、帝国の背骨にすることを将来的な構想とするようになっていた。
とはいえ、これはそれなりどころではない難事になった。
何故にそうなったかというと、それこそローマ帝国がモスクワ大公国に侵攻する以前、それこそ不運と言えば不運だが悪天候、気候の問題も相まって、モスクワ大公国内の農地は荒廃して飢きんが続発する惨状を呈しており、それこそ農奴の逃散が多発している状況だった。
そして、ローマ帝国はそこに攻め込んで、旧モスクワ大公国内の秩序を、それこそ貴族当主を粛清したり、モスクワの市民を救援したりというアメと鞭を駆使することで取り戻すことに成功したのだが。
その秩序を取り戻した旧モスクワ大公国内の農地、細かく言えば貴族から没収して国有化した農地を農民に払い下げる際に、ローマ帝国政府は頭を痛めることになった。
それこそローマ帝国が攻め入ったことから生じた戦乱も相まって、農地を実際に耕していたのが誰なのか、という紛争さえも起きる状況に農地はあったのだ。
農地の払い下げについての希望者を募って入札を行い、その結果を踏まえて農地を払い下げる方向だったが問題が起きたのだ。
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