第70章―12
そんな会話を羽柴秀頼と交わして、モスクワ運河開通の記念式典が完全に終わった後、フョードル・ゴドゥノフは、母のマリナと共に姉のクセニヤの墓に詣でていた。
フョードルの利き手にはモスクワ運河から汲まれた水の入ったバケツがあり、マリナは小さな花束を抱えていた。
「姉さん。これがモスクワ運河の水です。これを姉さんに飲ませたかった。そして、モスクワ運河が開通したのを見て欲しかった」
「クセニヤ。天国から見ているかい。モスクワ運河が無事に開通したよ」
花と水を供えた後で母子は墓の前で共に涙を流しながら言い、その後は暫くの間、むせび泣いた。
フョードルは想った。
本当なら父の墓を建てたいところだが、偽帝として処刑された後、遺体は火葬になって、遺灰はモスクワ川に流された以上、墓を建てようも無い。
それに下手に墓を建てては、女帝の逆鱗に触れかねない。
だから、姉の墓が今の自分達にとって、事実上の家族の墓になっている。
父がこの光景を見られたら、どう思うだろうか。
そう思いつつ、フョードルが周囲をふと見渡すと。
同じことを考えた人達、貴族やモスクワ市民がそれなり以上にいたのだろう。
何時のまにか、多くの墓に人が詣でていて、自分達母子とほぼ同様のことをしていた。
墓に花と水を手向けて、故人をしのぶ言葉を掛けた後、むせび泣いている。
本当にモスクワ運河の開通は、多くの貴族やモスクワ市民にかつてのモスクワ攻防戦で起きた疫病流行の悲劇を思い起こさせ、改めて故人のことを思い起こさせることにもなったのだろう。
この墓地以外の他のモスクワ市やその近郊の墓地でも、似たような光景になっているのではないか。
そんなことをフョードルは考えた。
そんなことをフョードルが考えていると、母のマリナの気持ちも落ち着いたのだろう。
むせび泣くのを何時か止めて、マリナはフョードルに声を掛けた。
「それでは家に帰ろうか。かつてとは比べ物にならないあばら家だけどね」
「あばら家とはいえ、きちんと屋根や壁があるだけ、マシですよ。冬場はともかく、夏場は屋根はあるものの、マトモな壁のない中で寝たこともありますからね」
「言うようになったねえ」
母子はやり取りをした。
フョードルは想った。
本当に母の口は悪くなったものだ。
それだけモスクワ運河建設工事で周囲の人と交わったことは、母に影響を与えたということだろう。
母にしても、貴族としてそれなりに教養を身に着けており、読み書きができたので、それを活かして運河建設の際には他の多くの貴族と同様に、基本的に管理業務に従事したのだが。
(管理業務を行うには、当然のことながら文書のやり取りがある以上、それなり以上の読み書きが出来ねばならず、多くのモスクワ市民が読み書きが困難な以上、読み書きができる貴族が重宝されたのだ)
運河の建設を実際に担う土木工事の現場では、どうしても荒っぽい言葉が飛び交うことが多く、管理業務の現場でも荒っぽい言葉が徐々に珍しくなくなり、母の口調もそれにならってしまったのだ。
「夕食はジャガイモを主食にして、肉や様々な野菜と煮込んだ食事にするか」
「いいですね」
母子はやり取りをした。
母は何時か料理の名手にもなっている。
現場ではそれなりの数の料理人がいて、作業員等の食事を作っていたのだが。
どうしても土木作業員の方が危険が高い以上は賃金が良いので、料理人が不足気味で、管理業務を担う母等も余裕があれば作業員等の食事作りを手伝うことが多々あった。
そうしたことが、今では母を料理の名手にしている。
フョードルは改めて想った。
本当に5年の歳月は、色々と母を変えてしまった。
それを言えば、自分も色々と変わってしまったものだ。
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