第70章―8
フョードル・ゴドゥノフの回想になります。
話が前後してしまうが。
フョードル・ゴドゥノフは、流れ出したばかりのモスクワ運河の水の流れを見ながら、様々なことを思い起こしていた。
「皇太子」として過ごしていた日々、そして、それが徐々に暗転していった対ローマ帝国戦争の頂点と言えるモスクワ攻防戦の日々。
幸せというのを戦争というモノはすぐに奪うのだ、というのを自分は思い知らされた。
緒戦といえるスモレンスク攻防戦に敗れて、モスクワ前面までローマ帝国軍が押し寄せてきたが、その時にはモスクワ大公国軍の軍勢はまだ意気軒高であり、何れは「冬将軍」によってローマ帝国軍は退却の止む無きに至る、と父は言っていて、それを自分や姉のクセニヤも素直に信じていた。
だが、モスクワ市街では徐々に疫病が蔓延しだし、姉は疫病に倒れた将兵を見舞わねば、と言って彼らの見舞いに行って。
発疹チフスにり患し、帰らぬ人になった。
発疹チフスにり患した姉を見舞いたかったが、治ったら会えるからダメと周囲に止められて、結果的に永の別れになったのを、今でも自分は悔やんでしまう。
どうして姉を見舞うといって、あの時に自分は強引に行かなかったのだろう。
更に言えば、この疫病の流行はきれいな水の不足から酷くなったと後で自分は聞いた。
もし、きれいな水があれば、姉は助かったやも、そう自分は考えてしまう。
そして、姉の死等の衝撃から父はモスクワ開城を決断することになった。
父は、モスクワを開城する前に自分と母に言い遺した。
「自分は処刑されて墓も造られないだろう。だが、お前達は自分の分も生きてくれ。そして、少しでも幸せを掴んでくれ」
母も自分も父の言葉の重みの前に唯、涙を零すことしかできなかった。
実際に父が開城を決断し、交渉の際にそう取り決めたことで、自分と母は処刑を免れたのだ。
とはいえ、ゴドゥノフ家の財産はほぼ没収されてしまったし、処刑は免れても母や自分は修道院送りになるだろう。
そう母と自分は考えていたら、モスクワ運河建設に協力するように、ローマ帝国政府に事実上は命じられて、自分や母はそれに従事することになった。
モスクワ運河建設の際には、荒野でつらく厳しい労役を強いられて事実上の死刑になるのでは、そう母と自分は覚悟して赴くことになったが、実際には全く違うことが起きた。
記憶が前後するが、モスクワ開城直後のモスクワ市街は、本当に悲惨の極みだった。
遺体の埋葬がどうにも追い付かず、文字通りに疫病で死んだ市民の遺体が、道路の陰にあるのが珍しくない惨状だったのだ。
更に多くの市民が疫病にり患して苦しんでいた。
そこにローマ帝国のみならず、日本や北米共和国といった外国の医療団が駆けつけてくれたのだ。
更には医療品や食料等の大量の物資も届くことになった。
無線による連絡や、航空機による輸送によって、それこそ地球の裏側からも人が駆けつけ、物が届けられる時代になった。
それを自分は痛感することになった。
そして、噂で聞くしかなかった車等を、自分は見て触れることにもなった。
そういった人や物の援けによって、多くのモスクワ市民が疫病から救われることになった。
それを実見した自分は、ローマ帝国や日本、北米共和国がもたらした様々なモノに驚き、何れはそういったモノに触れたい、そして、自分も使ってみたいとも考えたが、当分は無理だとも考えた。
だが、結果的にはモスクワ運河建設の現場で、自分はローマ帝国等がもたらした文物等に実際に触れて、その使い方を学ぶことになった。
更にそれによって、モスクワ運河建設工事は、(あくまでも相対的な話だが)比較的容易なことにもなった。
数万人の死者を私は覚悟していたが、数百人の死者で済んだのだ。
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