第69章―22
ともかく保守党の党首選は散々に揉めた末に、瓢箪から駒では無いが、各派閥が妥協した結果、本来は弱小派閥を率いるだけの尼子勝久が選ばれる事態が起きていた。
この際に尼子勝久の略歴を述べるならば、そもそも尼子勝久は衆議院議員になど余り成るつもりはなかったが、1578年に保守党が中国地方で候補者探しをした際、尼子氏の下に声が掛かったのが発端で衆議院議員になった。
言うまでもないことかもしれないが、尼子氏は「皇軍来訪」によって出雲と伯耆の2国の国司ということになり、山陰地方でそれなりの声望を持ち続けていた。
(最も国司を務めていた尼子晴久は1561年に亡くなっており、国司の世襲は認められないために尼子氏はその際に国司から下りていた)
それに目を付けた保守党が、尼子氏から誰か衆議院議員に出馬しないか、保守党が全面的に公認し支援すると話を振ってきたのだ。
だが、時の尼子氏当主の尼子義久は衆議院議員になるつもりはなく、その頼みを断った。
その一方で、保守党からの話を聞きつけた地元の有力者達が動いた結果、尼子一門である尼子勝久が結果的に担ぎ出されて、出雲から衆議院議員になったのだ。
そして、尼子勝久は中国地方で保守党の孤塁の一つを事実上は固守することになった。
何しろ、中国地方では中国保守党と労農党が二大勢力なのである。
尼子勝久が当選した当初の頃は保守党と中国保守党は友党関係にあったので苦労は少なかったが、木下内閣成立に伴ってこの関係は破断、以前からの尼子氏の声望と地道な地元活動によって、尼子勝久は中国保守党の攻勢を凌ぐ事態となった。
その一方で、衆議院議員の当選回数を重ねることによって、尼子勝久は保守党の長老議員といえる存在になり、小派閥とはいえ尼子派を率いることになった。
そして、北条氏政引退に伴う保守党の新党首を選ぶ党首選挙で、大派閥同士の合従連衡の果てに保守党の党首に尼子勝久はなったのだ。
話がズレたので、この日系植民地の自治領化法案についての問題に話を戻すと、こうした党内基盤が背景にあるせいか、尼子勝久は保守党内部のいわゆる抑えが効かず、党内の意見集約に苦労している状況にあるらしい。
従って、意見集約ができない以上、保守党は日系植民地の自治領化法案について、一糸乱れぬ対応というのが困難になっている。
党一体となって賛成か反対か以前の問題に、保守党はなっているのだ。
それに保守党の多くの衆議院議員がいわゆる地方の名家出身であって、保守党の看板を外して無所属で立候補しても、それなりどころではなく選挙を戦える議員が多い。
こうした背景もあって、日本本国内で意見が大きく割れているこの問題については、保守党の多くの衆議院議員が積極的な発言を躊躇う事態が起きており、積極的に賛否を言う意見が余り出ないことから、日系植民地の自治領化法案について保守党内の対応は一枚岩とは程遠い状況に陥っている。
「ふむ」
上里愛からそういった保守党内の状況、情報分析を聞いた政宗は、そう独り言を呟いた後、暫し天井を睨んで考え込んだ。
下手に党議拘束を掛けて、日系植民地の自治領化法案に対する投票を衆議院本会議で行おうとした場合、池田輝政らは本会議欠席という札を切る可能性が高い。
更に与党議員の一部が欠席するような強引な採決には納得できない、反対投票で保守党は一致結束すべき、と尼子勝久が説けば、確かにその通り、と保守党が却ってまとまる可能性がある。
そして、そうなれば野党全体が保守党の指揮の下で反対投票して、日系植民地の自治領化法案が否決廃案になる可能性がある。
ここは発想を変えるべきか。
政宗は二条昭実首相と話し合うことにした。
この世界でも、尼子勝久は毛利家では無かった中国保守党の攻勢に苦慮する事態になっています。
(中国保守党は、小早川道平の下で吉川広家や毛利輝元が参加しており、毛利家の面々が幹部です)
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