第69章―12
ともかく細川幽斎と千少庵にはそういった縁があったことから、織田美子が少庵を介して幽斎に茶会の声を掛けては、幽斎としてはどうにも断り難い話になるのは止むを得なかった。
更に言えば、(この世界の)少庵は実父の松永久秀の血を承けたようで、政財界のフィクサーといっても過言では無い立場を京で築いていた。
(それ故に、美子にしても少庵を京千家の当主にしたと言える。
千道安も日本本国の首都の京で千家当主になりたい、と希望したのだが、後々の政財界のことを考えた末に、美子は千利休の遺産の多くを道安に渡して宥めた上で、少庵を京での千家当主にしたのだ。
道安に政治的嗅覚が乏しい以上、下手に京での千家当主にしては京で政治的トラブルに巻き込まれて、道安が罪人になるのでは、とまで美子は危惧した。
実際、美子の感覚は正しかったようで、道安は大坂にいることもあり、政治から一線を画すことで大阪の千家を(この世界では)維持している)
ともかく、こういった背景から幽斎としては美子の茶会に警戒しながら出席することになった。
そして、3人が出席して少庵を茶頭とした茶会で茶が振る舞われた後。
その場で使われた茶器を色々と見比べつつ、美子が呟いた。
「茶道の心得が足りない私だから仕方ないけど、どれがどれだけの価値があるのか分かりかねるわ」
「はは。貴方の義母の愛子様が目利きをして、我が義父も肯定した名茶器ばかりですぞ」
「そう言われれば納得するしかないけど、私には呂宋焼の茶器の真贋がどうにも分かりかねるわ」
少庵が口を挟み、美子が口答えして、その場の空気が色々と一変した。
(実際問題として、(この世界の)呂宋焼の茶器の価値については、分かる人にしか分からないと言われても仕方のない現実があった。
そのために美子が言ったようなことを言う人が稀では無かったのだ。
更に言えば、呂宋焼については、上里愛子の実父の張敬修が朝鮮人の捕虜を活用して、更に景徳鎮等から明(中国)人を集めて創めた事業といってよく、上里愛子が目利きをして、それを千利休が肯定することで、日本国内で呂宋焼の価値を高めたと言っても過言では無かったのだ)
「貴方と義母の上里愛子殿との関係が色々と微妙なのは、私も承知しておりますが、余りにも明け透けな言葉ですな」
「それはどうも。それと似たような話をしようと考えているの。日本本国の兵と日系植民地の兵と、私からすれば同じように考えられるから」
「それはキツイというか、私の立場からは言いづらいというか」
幽斎は美子の言葉に言質を与えないように、注意しながら答えた。
「この際だから明け透けに言わせて貰うわ。近々日本は建州女直との戦争に踏み切るつもり、その戦後に満州の地に万人単位の兵を日本は常駐させる必要がある。その兵の一部を豪州に出して欲しい、と言ったら、貴方はどう答える」
「それなら、こちらも明け透けに言わせてもらいます。それなりの見返りが無いと、豪州はお受けしかねるとしか言えません」
「やはりね」
美子と幽斎は練達の政治家としてやり取りをした。
「それならば、豪州を自治領にするという見返りではどうかしら。勿論、軍事権も外交権もそれなりに豪州に認めるわ」
「そこまでくれば、独立国と言えますな」
美子の提案に、幽斎はそれなりの態度で応えた。
「ともかく、そんな話が出たら、それなりに新聞記者等に私は豪州の自治領化を求める、と言って貰えないかしら」
「実際に私としては豪州の自治領化を支持したいですから、拒む理由はありませんな」
「それでは、この件については双方が合意に達したという事で良いかしら」
「ええ、構いません」
美子と幽斎はこの件につき合意に達した。
既述ですが、同名なので誤解されそうですが、この世界の呂宋焼は、史実の呂宋焼とは異なる代物です。
この世界の呂宋焼は、朝鮮軍が対馬侵攻を試みて失敗した際に虜囚になった朝鮮人捕虜が呂宋で始めたモノで、更に張敬修が王直らの支援を受けたことから、史実の万暦赤絵に見落とりしない素晴らしい陶磁器が呂宋で作られるようになり、呂宋焼の名は高まりました。
更に張敬修の死後、呂宋焼の権利等は娘の上里愛子(張娃)に遺言で譲られ、1605年現在では上里愛子(張娃)が没したことから、息子の上里清がそれを引き継いでいます。
(とはいえ、それこそ配当を受け取るだけといってよく、上里清は実際の経営等は全く行っていません)
この場での美子と幽斎の会話の裏には、そういったことがあるということでお願いします。
ご感想等をお待ちしています。




