第69章―11
さて、それと相前後して千少庵を介して織田美子は細川幽斎と接触していた。
少し話がズレるが、この際に述べると千利休が先年に病で亡くなった後で、千家は二つに割れた。
先妻が産んだ実子の道安と、後妻の連れ子で先妻が産んだ娘の婿になった少庵、どちらが千家の跡取りに相応しいか。
本来的には道安が千家を継ぐのが筋だが、(世間的にも良くあることだが)利休の後妻と、先妻の子である道安の折り合いが悪かったことから、一時、道安は千家を飛び出し、利休が道安を廃嫡して少庵を跡取りにする事態が起きた。
その後、父子は表面上は和解したが、明確に道安の廃嫡を撤回しないままに利休が没したのだ。
このために道安と少庵どちらが千家を継ぐべきか、それこそ弟子達まで巻き込んだ大騒動になった。
更に難儀なことに(この世界でも)利休は茶道で名声を博しており、政財界の有力者が弟子にいて、それぞれに味方したことから、今上陛下の耳にまでこの騒動が入ることになった。
そして、これだけの大騒動を収めるとなると、生半可な仲裁者では収まる訳が無く、結果的にだが二条昭実首相が名目的な仲裁者となり、千家を二つに割って、大坂の本家を道安が、京の分家を少庵が継ぐ、という形で収めることになった。
さて、名目的な仲裁者という言葉が出たが、何故に名目的かというと実際にこの件で奔走したのは織田美子だったからである。
(この世界では)利休は織田信長首相の知遇を得たことから、政財界に名が知られるようになり、終には正親町天皇陛下にまで茶を振る舞ったことがあるのだ。
そういった縁から、今上陛下までこのお家騒動を気に掛けられているとの話が出たこともあり、信長の妻である美子が双方を仲裁して、二条首相の名で双方(というか、主にそれぞれを支持する弟子達)を納得に至らせたのだ。
(流石に二条首相の名まで持ち出されては、弟子達も大人しくせざるを得なかった)
そういった縁を使って、少庵を茶頭にして茶を振る舞いたい、と美子は幽斎に声を掛け、幽斎はそれに応じた次第だった。
更に言えば、幽斎にはこの誘いを断り難い理由もあった。
以前に二人きりの茶会の席において、幽斎は少庵と話をした。
「父上には開拓初期の頃に支援頂いたのを、未だに想い起こします。最も腹に一物ありそうでしたが」
「父のことですから、一物どころでは無かったと私でさえ考えます」
「その血を貴方は承けておられるのかな」
「さて、どうでしょう」
二人は微笑みあった。
少庵は松永久秀の実子だった。
利休は久秀の元愛妾を後妻に迎え、更にはその連れ子の少庵を娘婿に迎えていたのだ。
「皇軍来訪」後、久秀は暫く隠棲した後、豪州の足利将軍家を密かに支援するために商人になった。
そして、足利義輝が現状に不満を持てば、それに味方して挙兵してもよいとまで久秀は考え続けたのだが、肝心の義輝が豪州開発で満足してしまって現状に不満を持たなかったので、久秀の挙兵計画は挫折してしまったのだ。
そして、久秀はそのことを決して明言しなかったが、分かる者には分かることで、少庵も幽斎もそれを察していた。
(尚、義輝も察していて久秀の誘いに乗らなかった)
とはいえ、久秀がそれなり以上に豪州の支援をしたのは事実で、それに幽斎は感謝している。
ちなみに、この世界の久秀は大商人として結果的に人生を終えているが、私生活は奔放極まりなく、最期まで複数の妾を囲っていた。
少庵の実母は、久秀の寵愛が衰えたことから身の引き時と考えて久秀に別れを希望したところ、利休がそれを聞いて後妻に迎えた次第だった。
更にそれを聞いた久秀は利休に引き出物をやる、といって少庵を実母と共に利休の下に行かせたのだ。
この辺りの松永久秀と千利休、更にその子ども等の関係は史実を参考にしつつ、適宜、この世界に合わせて改変して描いたものです。
(だから、全く史実無視の話ではありませんが、史実とは微妙に違えています)
更に言えば、「皇軍来訪」後、松永久秀は表向きは完全に別人の名を名乗って、大商人兼茶人として名を馳せて亡くなっていますが、小説の描写の関係上、松永久秀の名で登場させています。
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