間章―1 上里美子の結婚に関する一つの区切り
「それでは自宅に帰りましょう」
「そうだな」
娘の美子が乗った旅客機が、完全に視界内から消えたのを機に妻の理子が声を挙げ、それに上里清は応じて、旅順空港から夫婦が住んでいる官舎へと帰宅の途に就こうとした。
そして、夫婦で共に数歩歩んだ後、理子は口を開いた。
「ところで、何故に美子の結婚で暴れるようなことまでしたのですか。弟の(広橋)兼勝が私に言ってきたことは本当なのですか」
「うん。兼勝は何と言ってきたのだ」
「いえ、美子と(鷹司)信尚殿の縁談ですが、信尚自身が美子に好意を抱いているのは確かだが、それ以上に五摂家の現当主の総意から、このような縁談になったという噂を小耳に挟んだと」
「このような縁談というのは、どういうことだ」
「美子と信尚殿の次男を、将来の上里家の当主に据えるのでは、という縁談です」
「えらい飛躍した噂が流れているな。そもそも結婚の申し入れが、信尚殿から美子にあった段階に過ぎず、更に言えば、この縁談については鷹司家からは私に何も言ってきていない段階なのに」
清はそんなやり取りを妻の理子として、何とか誤魔化そうとした。
だが、聡明な理子は誤魔化されなかった。
「美子や愛からこの縁談について言ってくる前に、貴方の下にこの縁談の情報が入っていたのではないのですか。そして、貴方はそれを本当だと信じたくなかった。でも、美子や愛がこの縁談を言ってきたことで、改めて本当だと分かって暴れたのでは」
理子は改めて夫を問い詰めた。
実際、娘の美子や義娘の広橋愛の下には噂が届いていないが、いわゆる事情通の公家の間では少しずつ鷹司信尚殿が上里美子に求婚したらしい、そして、二人の間に産まれた長男は言うまでもなく鷹司家を継ぐが、次男は上里家をは継ぐらしい、という噂が流れつつあった。
何しろ北米共和国やローマ帝国の大使が、この二人の縁談の為に隠密裏とはいえ動いたのだ。
どうしても人の動きは完全に隠せないし、更にこの二人が動くだけのこととなると、ということで、噂が噂を呼んで、事情通の公家の間では、根も葉もない噂だと思うが、という枕詞を付けて、そこまでの噂が極密やかに流れつつあったのだ。
更に言うと、鷹司信尚は摂家の次期当主という最上級公家でもある。
年頃の女性を持つ公家の父兄にしてみれば、それこそ娘や妹を愛妾でも構わないからお傍に、と平身低頭してでも、鷹司信尚はお願いしたい存在なのだ。
そういった人物が、少しでも妙な素振りを示せば、すぐに噂が流れるのは当然のことでもあった。
清は妻の問い詰めから逃げられないと覚って、傍から見れば違う話をいきなり始めた。
「五摂家の当主とその後継者については、当然に知っているな」
「言うまでもありません」
清の問いに理子は即答した。
その程度、公家の面々にしてみれば知らない筈が無い。
そして、公家の広橋家の娘である理子にしてみれば、夫は私をバカにしているのか、とさえ思わせる問いかけでもあった。
「では近衛家は」
「前久殿が隠居して、信尹殿が現当主ですが男児がおらず、外甥になる今上陛下の第四皇子を養子に迎えて、その信尋殿が次期当主の候補です」
「一条家は」
「内基殿が現当主ですが、御子がおられず、お家断絶の危機にあります」
「そうだ。五摂家の後継者は、摂家の子という不文律があるからな。養子を探すのも一苦労だ。そこに今上陛下が目を付けた。朕と皇后の子を養子に迎えぬかと、内基殿に内々に打診して来たそうだ。何とも勿体ない仰せ、と内基殿はお受けすることにしたらしい」
「えっ」
さしもの理子と言えども、宮中奥深くのそういった情報は得ていない。
夫はどこからそのような情報を得たのか。
理子は疑問を覚えた。
本文中で明確に描いていないかもしれませんが、今上(後陽成天皇)陛下の皇后は、史実で女御から女院になった近衛前久の娘の中和門院、近衛前子です。
(更に言えば、この世界では皇后として1589年に入内しています)
そうしたことから、摂家の近衛家の血も承けているという理由で一条内基は、一条家の養子に今上陛下の皇后腹の皇子を迎え入れることになりました。
ご感想等をお待ちしています。




