第68章―29
そういえば、と上里美子はローマ帝国のことまでも話題が及んだことから気になったことがあった。
ローマ帝国は、確か帝国全体の公用語はギリシャ語、ラテン語と定めており、それによって様々な公文書を作っていると聞いたことがある。
更に言えば、各地域において地域公用語を定めており、例えば、エジプトではアラビア語やコプト語が地域公用語とされており、旧モスクワ大公国(ロシア帝国)内ではロシア語が地域公用語とされている筈だ。
後金国内では、そういった言語問題はどうなっているのだろうか。
更に言えば、旅順の空港では見慣れない文字の掲示板を私は見かけた。
あの文字は、どこの文字なのだろうか。
そこまで考えが及んだ上里美子は、それなりに父の上里清が未だに酒に酔ってはいるが、ある程度は気持ちを落ち着けたこともあって、それに対する疑問を父に聞くことにした。
「お父様、ローマ帝国のエウドキヤ女帝陛下に匹敵する程の名君主と、後金国の君主のヌルハチ陛下を尊敬されるのは分かりました。ところで、後金国における言語問題はどうなっているのですか。ローマ帝国はその点で大変に苦労していると聞いたことがありますが、後金国はその点はどうなっているのでしょうか。更に言えば、旅順の空港では見慣れない文字を見かけましたが、あれは後金国の独自の文字なのですか。女真族の言葉は、どのようなものなのでしょうか」
上里美子は父の上里清に、そう問いかけた。
「儂の娘は本当に頭が回るな。更に言えば、義姉の美子を実母が謀った血を受け継いでおり、真に美子の名前に相応しい頭の持ち主のようだ」
父の言葉は温かみがある一方で、辛辣な皮肉を交えていた。
今回の娘の縁談について、完全に詰んだとしか言えない状況に陥らせた義姉の美子に対して、表面上は宥和の態度を示せても、内心では絶対に許せるものか、と酔いもあって父は考えているのだろう。
そう美子は考えざるを得なかったが。
父の説明は、それなり以上に娘の美子を納得させる代物だった。
尚、以下は父娘のやり取りの要約になる。
女真族の言葉だが、女真語というか、最近では満州語と呼ばれる言葉になる。
女真族が築いていた社会は、氏族社会又は部族社会と言われても過言では無い社会であり、更に言えば女真族全体をまとめて呼ぶ言葉は存在しないと言っても過言では無かった。
(この辺りは、それこそ朝鮮北部が好例だが、実際問題において民族が混住している地域が多く、女真族が住んでいる地域社会全体をまとめて呼ぶことが余り考えられてこなかった現実がある)
そして、それこそかつての金国時代には、契丹文字を参考にして女真文字が造られて、女真語が表記されていたこともあったが、金国が滅んだ後は徐々に女真文字は廃れてしまい、この頃になると死んだ文字にほぼなっていたのだ。
(更に言えば、女真文字は契丹文字を参考にしたこと等から、微妙に使いにくい文字だった)
こうした状況に鑑み、建州女直を統合した段階で、ヌルハチやその周囲は新たに女真語を書き記すための文字を何れは作ろうと考えていたのだが。
日本との講和の際に、日本から女真語を書き記すための文字が提供されたのだ。
(尚、日本としては女真族の調査の際に女真語を書き記す必要から、モンゴル文字を参考にして造られた文字と公式には説明された)
そして、これを見たヌルハチ達はその利便性に驚き、この文字を女真語を書き記すために採用することにしたのだ。
とはいえ、民族意識の背景や女真文字との誤解を防ぐことも相まって、女真語は満洲語と称され、又、この新文字は満洲文字と称されることになったのだ。
そして、今では公文書は満洲文字で記されている。
この辺り、女真と満洲が混用されて分かりにくい描写になっており、本当にすみません。
史実ではこの頃に女真から満洲への呼称変更が起こっており、この世界でもほぼ同様の事態が起きています。
そして、「皇軍知識」によって結果的に満洲文字が日本から女真、満洲に伝えられたことから、話中の事態が引き起こされています。
(この辺りの詳細を考えると極めて悩ましいことになりますが、小説という事で緩く見て下さい)
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