第68章―23
余談めいた話になります。
この際に横路に入るが、史実では20世紀もかなり遅くまで困難だった満州で、稲作がこの世界では17世紀初頭に可能になったのは、単純に「皇軍来訪」の影響とだけは言い難い話だった。
勿論、「皇軍来訪」の影響があったのは否定できない話だったが、それ以上に日本の稲作農家の孜々営々たる努力が、それを現実のモノとしたのだ。
「皇軍来訪」があったとはいえ、それこそ北東北や北海道の寒さに対応可能な稲の品種を、皇軍の将兵は持参していなかった。
だから、「皇軍来訪」の後も暫くの間は、冷害による凶作を北東北では甘受せねばならなかった。
だが、「皇軍」知識によって品種改良という考えが徐々に日本の国内では広まり、更には農水省が日本政府内に設置されて、そこが主導して品種改良が行われるようになった。
そうしたことから、1560年代に入る頃になると、北東北どころか北海道の南端といってよい史実で言うところの函館や室蘭周辺では、寒さに強い稲の品種が試みられるようになった。
とはいえ、この時点では単に寒さに強い品種が、本州以南と同様の暦で北海道で育てられるようになっただけと言っても過言では無かった。
そして、それだけでは石狩平野や上川盆地、名寄盆地にまで稲作が広まることは無かった。
稲作が北海道の地で成し遂げられたのは、主に北東北から北海道の地の開拓に赴いた少数の日本人の懸命の努力によるものであり、更にそれがアイヌの人々に広まった結果だった。
元をたどっていけば、アイヌの人々は狩猟採集民と言っても過言では無い存在だった。
勿論、その一方で山丹交易と言われる中国本土北部から満州、更には樺太から北海道を経て本州にまで至る交易を主に行っていたのも、アイヌの人々だった。
だが、「皇軍来訪」があったことから、日本本国と中国本土との倭寇を介した活発な交易がおこなわれるようになったことから、山丹交易は徐々に廃れるようになり、更に北米大陸等から毛皮が大量に日本や中国本土へ輸出されるようになったことは、狩猟で得た毛皮を売ることで利益を得ていたアイヌの人々を徐々に困窮させた。
とはいえ、アイヌの人々も生きねばならない。
こうしたことが、多くのアイヌの人々に農耕民への路を徐々に歩ませることになった。
そして、石狩平野から遂には名寄盆地に住むアイヌの人々までが日本人の影響を受けて、稲を栽培するようになったのだ。
更にその経験は、寒冷地における稲の栽培技術を実地で徐々に進歩させることになった。
例えば、苗代を作らずに直播器を駆使したり、保温折衷苗代を作ったりすることで、寒冷地で稲作が可能なことが日本人とアイヌの人々によって実証されたのだ。
こうした北海道における稲作の経験、技術が満州の大地に大規模に導入されることで、満州は米の産地にも徐々になっていくことになった。
とはいえ、それは一筋縄でいく話では無かった。
何しろ満州に以前から住んでいる農民は稲作について知らない者がほとんどだったからだ。
こうしたことが、それこそ中国本土それも長江流域以南や、朝鮮半島南部といった稲作地帯から人を満州に連れてこようという動きを引き起こすことになった。
それによって、少しでも容易に稲を栽培しようと考えられたのだ。
だが、このことは、そういったことに関心を持たなかった明帝国政府との間では余り問題にならなかったが、それこそ従前から直に国境を接していたといえる李氏朝鮮政府と後金政府との関係を急激に悪化させる一因になった。
李氏朝鮮と後金との間といえる鴨緑江や豆満江以南、ほぼ北緯39度線以北の間は女真人と朝鮮人が混住している状況で、民族対立が以前からあったがそれが激化したのだ。
この朝鮮北部の状況ですが、私なりの理解に基づくものです。
清と李氏朝鮮の関係が1637年にほぼ確定するまで、朝鮮北部には女真人と朝鮮人が混住しているといってよい状況だったようです。
そして、1637年以降、清は朝鮮北部に住む保保全ての女真人を満人八旗に組み入れて、朝鮮北部から連れ出します。
それによって朝鮮北部は朝鮮人のみが住むといっても過言では無い状況になったようです。
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