第68章―22
もっとも上里清とヌルハチが、このような方策を考えつけたのは、日系植民地から駆けつけた面々から聞いた話があったのも事実だった。
(既述だが)日系植民地、中でも中南米の植民地の農地の開拓が大幅に進んだのは、主にアフリカ大陸からの年季奉公人の活躍が大きかった。
又、オーストラリア等でもインド等からの年季奉公人が鉱山等で働くことで、植民地開発が順調に行われたのも事実なのだ。
そこで、実地にどのようなことが行われたのか。
更には北米共和国で行われた年季奉公人の実態も調べられた上で、満州の新農地の開拓に際して、中国本土や朝鮮半島から人を集めて開拓が行われることになり、そういったことが、現在進行形で行われていくことになったのだ。
もっとも、上里清個人としては、このような動きは余り好きになれることではなかったし、それこそ今では義理の娘といえる存在になった広橋愛の存在もある。
こうしたことから、これまでの奴隷を農業労働者的な立場にすることを、ヌルハチらに指導した。
そして、ヌルハチらにしても、何時までも日本から銃火器等の移入に頼るのはどうか、という考えを持つようになっていき、そうなると商工業を充実させる必要があるという考えに至った。
更にそうなってくると、工場等で働く労働者を育てる必要があることも理解することになる。
となると、現状の奴隷制を維持していては、工場労働者の育成等が無理な事も徐々に分かってきて。
この1605年時点では、まだまだ具体的な方策についてどうすべきか、後金国の政府内で議論が行われているだけだったが、奴隷制については廃止の方向に進みつつあった。
とはいえ、上記のような事情から、中国本土や朝鮮半島からの人の流れも起きており、そういった人達の多くが現時点では奴隷(農奴)として新たな農地開拓に従事していた。
尚、この農地開拓だが、日本人としてはトラクターを始めとする農業機械を導入したがったが、それは少なくとも数年先の話にならざるを得なかった。
何しろ、日本軍と戦うまでは自動車等は見たことも聞いたこともない、という女真人ばかりなのだ。
そして、そういった状況にあっては、初期の農地開拓は良くて牛馬を使い、下手をすると手作業ということにならざるを得なかった。
(とはいえ、これまでよりも進んだ農機具が、日本から積極的に提供されたことで、それまでは開拓が困難とみられていた土地が、農地化できるようになったのは事実だった)
その一方、様々な農産物の導入は積極的に行われた。
それまでは大豆や小麦、高粱といった農産物が満州の大地では主な農作物と言えたが。
そこに日本人は、トウモロコシや稲を持ち込んだのだ。
更に救荒作物として、ジャガイモも持ち込まれた。
こういった農産物は、女真人を始めとする満州の住民にしてみれば見慣れぬ代物であり、初期の頃は栽培を試みる者も少なかったが。
在満州日本軍が行った道路等の整備において、現地の住民を積極的に雇用した際に、トウモロコシやコメ、ジャガイモを使った料理を食事として提供したのが、一つの転機になった。
そこで、自らが食べてその味や料理法を知り、更に商品作物として売ることもできるということを知って、満州の住民は徐々にトウモロコシや稲、ジャガイモを栽培するようになった。
尚、皮肉なことにジャガイモを最も多く食べるようになったのは、中国本土や朝鮮半島から連れてこられた人達だった。
やはり、人間としては食べ慣れた物を食べたいと考えるのが人情であって、新しく作られるようになったものは普及しづらいものだからである。
そのために一部の住民から、ジャガイモに対する偏見が新たに生まれる程だった。
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