第68章―17
尚、このような女真との講和条件の詳細を実際に詰めた日本側の担当者が誰か、というと実は当時、外務政務次官を務めていた吉川広家とほぼ言えた。
吉川広家は満州に現に赴いてヌルハチと膝詰めで話をして、日本と女真の講和を取りまとめたのだ。
この現実について、伊達政宗は吉川広家を少し羨むことになった。
伊達政宗としては、ヌルハチとこの時に話し合いたかった、という想いを抱いたのだ。
尚、この頃の外務省関係は小早川道平が長年に亘って外相を務めた影響もあって、中国保守党がほぼ抑えていた。
そうしたことから、吉川広家が外務政務次官に就任していたのだ。
(尚、これは小早川外相なりの中国保守党の今後を見据えた人事とも言えた。
何しろ小早川外相にしても1545年生まれであり、この時代からすれば60歳近くになっている以上はそろそろ引退して、地盤等を後継者に譲るべき時が迫っていたのだ。
そして、小早川外相としては、中国保守党の次期党首として吉川広家を考えており、実際にその考えが正しいか否かを、ヌルハチと吉川広家の外交交渉で見極めようと考えたのだ。
更に言えば、吉川広家は小早川道平の期待に応える行動を果たせたのだ)
そして、日本と建州女直の講和は成って、満州に日本軍が駐留した上で、建州女直の発展を目指していくことになったのだが。
誰を在満州日本軍の総司令官にするのか、で日本政府や軍内部は少なからず揉めることになった。
それこそ出先である以上、急場には独自で判断する権限を総司令官に与えない訳にはいかない。
となると現地軍の暴走が起こりかねない話になる以上、それなりに政治的見識がある軍人を総司令官に据えない訳にはいかない。
更に言えば、建州女直に対して軍民を問わない指導的役割を果たせる人材であることが望ましい。
そういった諸々の事が考えられた末に発令された人事が。
「在満州日本軍総司令官を命ずですか」
武田勝頼陸相のみならず、二条昭実首相等まで臨席している場で、辞令交付を上里清は受けることになっていた。
「散々に悩んだのだが、君以上の適材をどうにも考えつかなかった」
武田陸相が口を開いて言い、その横では二条首相が無言で肯いた。
「真田(昌幸)参謀総長も言ったが、君はオスマン帝国の軍事改革を成功に導いているし、実戦経験も北米独立戦争である。そういったことからすれば、ヌルハチ率いる建州女直の面々も君を重んじると考えられるし、実際に上手く行くと考える次第だ」
武田陸相は更に言葉を継いだ。
「私はこの戦争で事実上は息子二人を失った身です。それをお忘れですか」
上里清は反論したが、そこに二条首相が口を挟んだ。
「私情を差し挟まずに自らの信じる御国の為に行動するのが、上里家ではないのかね。それこそ君の上の兄弟3人全てがそうではないか。君もそうだ、と私や武田陸相は信じている」
実際、二条首相の言葉は正しいと言える。
本来の祖国がシャムといえる織田美子は、シャムを捨てて日本の為に尽力し続けて来た。
上里勝利も、今では日本を離れてローマ帝国の大宰相の印綬を帯びる身である。
武田和子も北米共和国の為だからと、日本を捨てて親兄弟に銃を向けることを躊躇わなかった。
そう上里清の上の三人の兄姉は、私情を究極的には捨てて己の信じる祖国の為に生きてきたのだ。
そして、二条首相や武田陸相は、上里清も同様だと考えたのだ。
上里清は上里家に対する分に過ぎる評価だと考え、何とも言えない想いに耽らざるを得なかった。
だが、ここまで言われては是非もない。
「在満州日本軍総司令官として満州に赴き、建州女直いや女真全体の様々な改革に私は当たりましょう」
上里清はそう言わざるを得なかった。
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