第68章―13
とはいえ、幾ら孝行娘の美子と言えど、そろそろ父の清の愚痴り酒に付き合うのがつらくなりつつあった。
そうした空気を、美子の養母の理子は読んだのだろう。
「息子2人が亡くなったのを、改めて悲しむ気持ちになったのは分かりますが、そうはいっても、日本は何とか勝って、建州女直との間に講和を結べたではないですか。それで、気持ちを落ち着けて下さい。それにヌルハチ殿も逢ってみれば、私達夫婦に対して慰めの言葉を掛けて下さる良い方でしたでしょう」
「まあなあ」
妻の理子がそう声を掛けたことで、少し気持ちが落ち着いたのか、清の酒を飲む手が止まった。
(それに清自身、14歳の娘相手の愚痴り酒が、そろそろ気まずくなっていたのもあった)
それを機に美子は、その場の空気を変えるためもあって声を挙げた。
「ヌルハチ殿とお父さんどころか、お母さんも逢ったのですか」
「ええ。この地に在満州日本軍司令官として夫が赴任してすぐの頃だったかしら、ヌルハチ殿はわざわざ公邸にまで来られて、
『戦のならいとはいえ、息子二人が戦死されたとは。心からお悔やみ申し上げます。恨まれても当然の身ですが、せめて頭を下げさせてください』
と通訳を介して、私にまで言われたの」
「そんなことがあったの。何で教えてくれなかったの」
理子の言葉に、美子は少しでも空気を更に変えるために、わざと素っ頓狂な声を挙げた。
「そんなこと娘だからこそ言えなかった。完全な社交辞令だからな。だが、少し気が楽になったのも確かだ。そして、息子のことは心の片隅に押し込んで、満州国に様々な支援を行ったから、ヌルハチ殿からはあなたのような大人がおられたとは、とまで言われて良い関係を今では築いている。もっとも、ヌルハチ殿にしても、どうにも勝てない戦だったから、頃合いを見計らっていたのだろうな」
更に気持ちを落ち着けた清は、美子にそういった。
さて、改めて日本対建州女直との戦いの大雑把な流れを述べると。
1601年3月初めに旅順、大連近郊に上陸した日本軍1個師団は3月一杯を掛けて、金州以西の遼東半島を制圧し、並行して仮設の港湾整備や飛行場建設を行った。
(尚、実際には3月末までに仮完成といったところで、更なる工事が秋まで引き続き行われた)
そして、1601年4月初めから大連近郊に展開した航空部隊等の支援の下、2個師団が金州から営口を目指して進撃したが、既述のように建州女直軍は散発的に抵抗するに止まり、結果的に4月半ばには営口を日本軍は確保してしまった。
とはいえ、それでも建州女直軍は日本軍と積極的に戦おうとする姿勢を示さなかった。
こうした戦況に鑑み、1601年5月初めに安東近郊に総予備とされていた1個師団が上陸して、安東を確保すると共に、営口や安東周辺でも港湾を整備し、又、飛行場が建設された上で、6月初めから遼東半島の山間部への侵攻作戦を日本軍は発動したのだ。
だが、一部を既述済みだが、この侵攻作戦は色々な意味で苦戦を日本軍は強いることになったのだ。
それこそ侵攻開始作戦発動時点では、多くの日本軍歩兵ができる限りはトラック、自動車で前線に赴こうとする惨状だった。
そして、航空支援にしても山間部での戦闘ということから、無線による支援要請がまともには届きにくい事態が多発することになった。
(更に言えば、最前線で戦う歩兵小隊や中隊が装備している無線機は、そのほとんどが通信距離の性能や重量等の問題から短距離通信がやっとというのが大半で、そうしたことも航空支援要請が最前線とのやり取りの際に上手く行かない事態を多発させることになったのだ)
そうしたことから、1月余りの苦戦を日本軍は強いられたのだ。
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