第68章―9
実際、真田昌幸参謀総長にしても、遼東半島山間部で遊撃戦を試みるヌルハチ率いる建州女直軍との戦いは、本音ではやりたくない代物だった。
尚、念のために言うが、日本軍にしても、北米独立戦争で北米共和国軍を相手に対遊撃戦を大規模に展開した経験が実際にあったのであり、それ以外にも小規模ながら日本の影響圏下にあるアジア各地の小国や勢力間の紛争に巻き込まれたり、日系植民地における現地勢力と日本人植民者間の紛争に武力介入したりという形で、対遊撃戦の経験を実地で積んできてはいる。
だが、実際問題として、山間部での対遊撃戦は日本軍にしてみれば、圧倒的な砲兵火力の優位を発揮できず、又、航空支援も難しい事態が多発することで、正直に言って苦手な戦闘を強いられるのが必然であり、そういったことからできれば避けたい戦闘だったのだ。
とはいえ、ヌルハチ率いる建州女直が遼東半島山間部を拠点として抗戦を続けている以上、日本軍としては遼東半島山間部へ侵攻して、建州女直軍を叩くしかなかった。
そして、真田昌幸参謀総長が懸念していたように、この遼東半島山間部への日本軍の侵攻作戦は三方から包み込むように行われる見事なモノと外見上は見えたが、やはり苦戦を強いられることになった。
(場面が変わっています)
「旅順、大連をまずは制圧して、充分な前進拠点を現地に造っておいて、その上で営口へと陸路進撃することで更にヌルハチを挑発して、とやっても相手が全く応じない以上は、安東も上陸占領して、営口や安東にも飛行場等を整備して、充分な航空支援が可能なようにして、と極めて手堅い作戦だった」
「はい。そのように実際に作戦は進められた、とそのときに聞いたと私は覚えています」
父の清の言葉に、美子は寄り添うように答えた。
実際に美子はそのように覚えている。
更に言えば自分と微妙に仲が悪かった兄二人、克博も隆も自分までも読むのを予期して、両親宛に手紙を書いてきていて、その手紙の中で父と同様の想いを述べていた。
「真田昌幸参謀総長は、当代の名将だ。自軍の戦力に慢心せず、手堅く損害が出ないように作戦を進めている。絶対に自分達は勝って、凱旋できると信じている」
兄弟で微妙に内容は違うが、そんな文面で、結果的に本当に皮肉な手紙の文面になったものだ。
「だが、私も真田参謀総長も忘れていたことがあった。歩兵が歩かなくなっていたのだ。それが克博が死んだ遠因だった。更に言えば、多くの日本軍歩兵の死の遠因だった」
「そうだったのですか」
父と娘は家族の死をそう振り返った。
さて、歩兵が歩かなくなったとはどういうことだ、と思われそうなので、メタいがここで説明する。
(この世界の)北米独立戦争が勃発する頃まで、歩兵は歩いて移動するのが当然だった。
だが、戦車が造られる時代になれば、当然に自動車も造られるようになる。
そして、北米独立戦争が終わる頃になると整備や補給等の事情から、流石に最前線での運用は困難だったが、後方ではトラック、自動車が徐々に日本では使われるようになっていた。
更にこの動きは日本や日系諸国では拡大を続け、ローマ帝国復興戦争では自動車部隊が前線に投入される事態が起きるようになり、その後も自動車部隊は増える一方になった。
そして、対女真戦争の頃になると、日本軍歩兵は歩兵と名乗ってはいるものの、実際には自動車化歩兵ばかりになっていた。
(勿論、砲兵部隊にしても輓馬部隊は全廃されており、自動車牽引の砲兵ばかりになっていた)
こうしたことが、結果的に山間部で日本軍歩兵が戦う際に苦戦を引き起こした。
いつの間にか、日本軍歩兵は歩いて戦うのを感覚的に厭うようになっていたのだ。
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