第68章―7
そうしたことから、渡洋侵攻作戦を行うことを日本陸軍は大前提とせざるを得なかった。
そして、渡洋侵攻作戦を行うに際して、連隊規模以上の派兵を大前提として陸軍整備を行うというのは、仮想敵国等からして極めて考えにくいのが、それこそ1600年前後の日本の現実だった。
(そういうと、1600年当時の日本の最大敵国は北米共和国であり、例えば、カリフォルニアにおける国境紛争から、第二次北米独立戦争勃発を懸念していた筈では。
という意見が噴出するだろうが。
現実にそういった危険が切迫しているのか、というとそんなことは無かったのだ。
何しろ北米共和国にしてみれば、北米共和国独立は成し遂げられたものの、北米独立戦争の経過からすれば、カリフォルニアやカリブ諸島等を事実上は失陥する等、北米独立戦争が敗北と言って良い結末になったのは、どうにも否定できない現実だった。
更にそうしたことから、北米共和国の軍部は、日本が対北米共和国戦争の為の軍備を積極的に整備していない現状から、北米共和国軍の量を削減する宥和政策を主張して、それによって捻出された費用で軍の質的向上を積極的に図っている現実があった。
実際にそうした方策を講じなければ、1600年に日本本国が原爆の開発に成功していたとはいえ、北米共和国も1605年に原爆の爆発実験に成功するという奇跡が引き起こせる筈が無かったのだ)
そのために日本陸軍の基盤は、各兵種(歩兵、砲兵、戦車、工兵等々)の独立大隊に置かれた。
それを4個以上6個以下で組み合わせて、旅団司令部の隷下において対外戦争には対応するという想定で、北米独立戦争以降も日本陸軍は実働がされていた。
とはいえ、対女真戦争を短期で終わらせる必要があると真田昌幸参謀総長以下の参謀本部の面々が考えたことから、北米独立戦争以来の師団編制を日本陸軍は行うことになったのだが。
約20年が経ってからの師団編制は、日本陸軍にとって思わぬ負担になった次第だった。
最終的に1個師団は、3個旅団司令部を隷下において、それに歩兵9個大隊、砲兵3個大隊を基幹とした上に戦車大隊や工兵大隊等を附加して編制されたが、実際の戦場では微妙にその巨体を持て余す事態が多発することになった。
その主な理由は後述するが、少しでも日本軍に対して劣位を減らして戦おうと女真軍が小部隊による遊撃戦を遼東半島の山間部で展開することに徹底したことだった。
更に北米独立戦争終結後、約20年も大規模な戦いを日本陸軍は経験しない一方で、様々な兵器が日進月歩の勢いで進化しており、そういった兵器の開発思想と現場での運用が齟齬しがちであったというのも裏事情として挙げられるだろう。
例えば、戦車にしてもこの当時ならば豆戦車、軽戦車と揶揄されるような重量15トン以下の戦車しか北米独立戦争では日本軍は運用していなかったが、この頃には重量25トン前後の戦車が日本軍の主力となっており、更に北米共和国やローマ帝国の戦車を凌駕することを見据えて、重量35トン前後の戦車も先行量産されつつあるという現実があった。
この戦車の開発思想は正しい代物といえるが、問題はそういった戦車を遼東半島の山間部で運用できるかというと、現場では上手く行かない事態が多発することになってしまったのだ。
(これは遼東半島の山間部では戦車が機動可能な道路が無い等の事情から止むを得ない側面もあった)
他にもヘリコプターの実戦投入が実現したのも、対女真戦争が世界的に見ても初めてのこととはいえたが、裏返せば初めてのことだけに現場では問題が多発するのも当然の事ではあった。
そういった負の側面を、上里清らは背負うことになった。
ご感想等をお待ちしています。




